「この部屋にある本は、どれも好きに見るといい。こっちの言葉が分からなくても、図版が豊富なのがたくさんある」
彼は私にも読めそうな本の位置を簡単に説明したあと、無表情にそう言った。声に不機嫌な調子がないことにとりあえず安堵して、私はちらと彼の眼の色を伺う。碧い虹彩はもうずっと私の瞳に焦点をあわせていたようだった。でも私は視線が繋がってしまうのが怖くて、目を泳がせる。あの碧のなかに軽侮や嘲笑の欠片でも見つけてしまったら、彼や彼等の前には二度と立てなくなりそうだった。
「ありがとう、ございます」
目を合わせないままうつむきがちにお礼を言うと、彼は黙って頷いたようだった。何を言うでもなく、佇んで動かない彼は、まだ私をじっと見つめていた。何か不足だったろうか。この国の礼儀作法を必死に思い出しても、どうすればいいか見当も付かない。何か言うべきなのだろうか?
何を待たれているのか分からなくて、私はうろうろと自分の足許を見つめて視線に耐える。靴のつま先だけを見つめていても、彼の碧い眼が眼の奥にちらついて、怖くてたまらない。あの綺麗な瞳に、私はどんなふうに映っているだろう。どんなにかみっとも無いことだろう。
すっかり消えてしまいたくなって、でも私は逃げることが出来ない。鼓動はきっと震えるように打っているに違いない。私はぎゅっと目を瞑る。
ふいに、彼が身じろぐ気配がした。衣擦れの音がして、何かが近寄ったような感覚があった。かつん、と彼の踵が鳴る。それを最後に気配はぴたりと止まって、去っていく。
そして、ふう、と息をつく音。
――ああ、溜息だ。気付くと、瞑った目から熱い滴が滲んできそうだった。呆れられた、疎ましがられた。眼もあわせられないのだから当たり前だと思うのに、どうしようもなく胸が震える。そしてまた、彼がたったひとつ息をついただけで不安でいっぱいになってしまう、その事実そのものが、とても悲しくて不安だった。
みっともなくしゃくりあげそうになっている私に、彼はやはり何も言わなかった。無言で視線がそらされ、ただ足音がする。ぎいと扉を開ける音がした。ぱたん、と扉が閉まる音はとても静かで、彼の上等な身ごなしが眼に見えるようだったけれど、私が顔を上げられたのは、かつんかつんと鳴る足音が、すっかり遠ざかってからだった。
彼のいない彼の図書室で、碧い眼が私を見ていないことにかろうじて安堵した。膨大な蔵書や調度品の重厚なたたずまいは私を緊張させるのに十分だったけれど、それでも私の恐怖を彼が見ていないことが嬉しかった。
もう何度も彼と対面し、言葉を交わしてきて、私の考えはいつも同じ経路で同じところへ行き着く。碧い眼も金色の髪も私にはあまりにも眩しくて、憧憬が私の胸をさらっていく。そしてそれはいつの間にか、劣等感と焦燥に摩り替わって結局、私は恐怖し続けていた。
あの綺麗な色の眼が、私のおどおどした真っ黒な眼を映すのはとてもおかしなことだと思えて仕方がない。この立派な部屋に私がいることだって、本当はひどく場違いで恥知らずで、生意気な真似だという気がした。
ここは彼が長年私的に使ってきた図書室であり、彼がいなくたって彼の気配は部屋中に満ちていた。壁紙の模様や、カーテンの色、控えめな照明など、きっとなにもかもが彼の美意識を体現しているのだろう。私が今迄知っていた美しさとは全く別のものなのに、穏やかな色合いはとても好ましくて泣きたくなる。
ふと、片隅に置かれた机に目をやる。飾り気のない木製の机と揃いの椅子は、彼の背にあわせて作らせたに違いなく、私には少し高そうだった。歩み寄ってみると、机上にはついさっきまで使われていたかのように、筆記具が一通り残されていた。
万年筆が一つ、鉛筆が三本、本が何冊か重なっており、ノートは開いたままになっている。
彼の流麗な筆記体を思い出しながら、私は万年筆を手に取った。黒い色に金の縁取りが鮮やかで、まるで蒔絵の漆器のようだから、きっととびきり上等の品に違いない。彼がいつも使っていた品とは違うようだ。いくつも持っているから、置いていってもどうということはないのだろうか。
でも、ノートを開きっぱなしで置いておくのは彼らしくない。彼の習慣を私は知らないけれど、どんなに無造作でも洗練された仕草をするひとだから、どうにも似合わない行動だとかんじる。
ノートの開いたページには、短い文章が書き付けてあった。綺麗に整ったアルファベットは、一文字ずつ活字のようなブロック体で、いつもの彼の流れるような書体ではなかった。模様のように綺麗なあの筆記体だったなら、ことばとして目に入ることはなかったかもしれないのに、あんまり読みやすくて、私は文章をつい訳してみたくなる。
――たりないもの、があれば……呼びなさい。わたしは……となり、のへや、にいます。 A.
どの単語もごく簡単なものが使われていたから、たぶんこれで間違ってはいないだろう。最後のAは、たぶん彼のイニシャル。
つまり、これはメモ書きではなくて短い手紙のようなものに違いなかった。この図書室を使う誰かのために、彼が気遣ったやさしいことばだった。
――あれ、でも、じゃあ……。
これは、誰にあてたのだろう。わざわざ文字の書き方まで意識して。
まさか。そんなことはあるまい、と机の上をよく見てみれば、ノートの隣にある分厚い本は辞書だった。彼が使うとは思えない、私の国と、彼の国の言葉の辞書だった。真新しい表紙がぴかぴかしている。奥付にはほんの一月前の日付があって、ごく最近に購入した最新版と知れる。
もしかして、これは、彼が私のためにわざわざ用意してくれたのだろうか。そんなわけがない、という気持ちは、辞書の下に重なっていた本の表紙を見て消えてしまった。私が見たいといった画集、ならこういうのも好きだろう、と彼が言った絵本。あのときは当たり障りのない会話という意味しかなかったことを、彼が分からなかったわけはないのに。
――どうしよう、こんどこそ泣いてしまいそうだ。
そういえば、鉛筆は三本とも削りたてみたいに尖っている。
***
「あのう、お願いがあるんです。」
私がそういうと、彼はとても驚いた様子だった。ティーカップを置いて、手にとっていた書類を置いて、彼は顔だけでなく体ごと私を向いた。さっき図書室に入ったばかりだというのに、さっそく呼ばれるとは思っていなかっただろう。やはり迷惑だったろうか。急激に自信を失って、私は早くも後悔し始めていたが、彼はやっぱり私をきちんと見つめて、私のほうへ歩み寄ってくる。
ノックして入室はしたものの、ドアの前に突っ立っていたことに気付いたのは、彼が私から80センチほどの距離まで近づいてからだった。部屋の奥にいる彼の傍には気後れして寄れなかったのだ。
「なんだ?なにか分からないことでもあったか?」
声には不機嫌とか迷惑そうな色はなかった。それどころか、やわらかに、やさしげに響いてさえいて、すこし、嬉しそうな感じに聞こえるのはどうしてだろう。気のせいかもしれない。私はけんめいに顔を上げる努力をして、くじけないうちにと一気に言った。
「手紙の書き方を教えてください。それから、この近くで封筒と便箋を売っているところと、郵便局の場所も教えてください。」
碧い眼の中に私の必死な顔が映っていて、なんだかとても恥ずかしくなった。我慢できずにうつむいてしまう一瞬前に、その眼がふと綻ぶ。口元が笑みのかたちになっていて、彼は私に微笑んでいるのだと気付いた。
「封筒や便箋くらいうちのを使えばいいし、手紙を書けたら一緒に出しに行ってやるよ。それで、どこに出す手紙なんだ?」
そう答えてくれた彼のアクセントは歌うようにかろやかで、でも相変らず上等の落ち着きを備えていた。本当に、憎らしいくらい眩しいひとだ。私はなんだか頬の辺りが暖かくなるような心地がして、彼の碧い眼から金色の髪に視線をうろつかせながら答える。
「お礼状なんです。とても親切にしてくださる優しい方に。だから、その、ここの住所も教えてください。」
彼は金色の睫をぱちぱちと上下させ、考えるように黙り込んだ。私はただじっと彼を見上げてうろたえつつ待っていることしか出来ない。情けなくて恥ずかしいけれど、無言で視線を絡めあうのを私からやめることは嫌だった。
「もちろん喜んで教えるけど、その前に、俺もお願いがあるんだ」
「なんでしょう?」
こんどは、私が黒い睫をぱちぱちさせる番だった。
「やっぱり、二人で一緒に本を見ないか?それで、二人で、たくさん話がしてみたいんだが」
そう言った彼のほころんだ目許は、なぜかとても安堵に似ていて、私はまた泣きそうだった。彼の言うようにすれば、そう遠くない未来、場違いで生意気でなく、彼の前に立っていられるかもしれない。そんな勝手な希望がとまらない。
――はい、と小さく頷くのがせいいっぱいだった。
彼の碧い眼は、もうずっと私の黒い眼に微笑んでいる。わらってほしい、という意味かもしれない。