※ A P H 英 日 ( 同 盟 失 効 か ら 十 数 年 後 の お 別 れ 編 )



「よろしければ、傘を。我が国の雨は、貴国とは性質がちがいますから、あなた、びしょぬれになってしまいますよ」

出来うるかぎり平板に、しかし声に僅かな哀願の色が滲むのを隠せないまま、私は自分の差していた蛇の目傘を、彼のほうに差しかけた。油紙が雨を弾く場違いに軽やかな音が彼の頭上に降り注ぎ、反対に、私の黒髪は雨に降られてじっとりと膚に絡みつく。

彼は珍しく驚きを露に息を呑んだ。私がこのような、まるでありもしない名残を惜しむような真似をするとは、予期しなかったものと見える。彼にしては読みが甘い。一貫性の無さはよくご存じであろうに。私が時節にそぐわぬ愚行をいくつ重ねたところで、今さら、何を驚くことがある。これ以上侮りようも無いくせに。

その碧眼は底意を探らんと眇められるが、応えるべき言葉は、視線ですら、私には持ち合わせがない。あとは彼が去るのを待つよりほかにすることもないので、傘柄を握る己の右手を意味も無く眺めていると、二種軍衣の袖から伸びる手首の華奢なことが、やけに目について口惜しかった。

彼等と較べれば、厭になるほど貧相にできた身体だ。軍服など気休めにもなりはしないが、どうせなら軍帽も被ってくるのだった。悔やみつつ、首筋を雨滴が伝い落ちる厭な感触に身震いした時、チッと舌打ちの音が聴こえた。雨音に掻き消えそうでいて、奇妙な鮮明さをもって耳の奥に響く。それは、過去の残響と混じったからかもしれなかった。

舌打ちだけを前触れに、彼の右手が伸ばされた。私は彼の白い手と自分の細い右手を交互に見やる。多すぎるのか少なすぎるのか、感情を持て余して視線一つ交せない。そんな表層ばかりは、会ったばかりの頃とそっくり同じなのだから笑える。もしかして同じようなことを思ったかもしれない彼は、もぎ取るように、私の手から蛇の目を奪った。

私より大きな手で竹の柄をぎこちなく握り、彼は顔を顰める。本国では傘なんて女が召使にさしかけさせるものだそうだが、初めて聞いたときは驚いたものだ。彼のほうは、紙と竹でできたいかにも東洋的な品を、あの頃、西洋人らしい興味でもって面白がっていた。

―― 自分が使うのはいまいちだが、お前の手にあるのを見ているのは、嫌いじゃない。
彼はかつてそんなふうに言い、竹の筋の複雑に絡み合った模様が天に透けるのを、碧い眼のいろを心持ち甘くしてじっと見つめていた。ぴんと張られた紙の上を、雨粒が跳ねる音は愉しいのだと、私が言ったら、頷いた。

蛇の目を受け取った彼は無言のまま私と対峙し、何かを量るように沈黙していた。射るような視線に応えようとするなら、ただ堪えて立ち尽くすしかなく、私はついに、彼の白い手から視線を逃した。

流れた視線は、汚れた白靴や雑草の伸びた地面などを経て、生垣近くに植え込んだ紫陽花に留まる。盛りを迎えた西洋紫陽花は、今年も変わらず青い花を沢山つけた。挿し木したのは、もう数十年も昔のことだ。紫陽花の寿命は存外長い。

ある日のこと、雨のなか、庭の紫陽花を眺めていたら、ちょうどやってきた彼が気付いて私に呼びかけた。振り向きざま、私は持っていた蛇の目をくるりと回したら、雨の滴が舞ってきらきらひかった。そうだ、あの日は天気雨だった。私の子どものような仕種を彼は笑った。こういう雨を、狐の嫁入りと云うのだといったら、彼は驚いた顔をして、fox marriage という言い回しを教えてくれた。

埒もない記憶だ。ほんの一時、雨宿りに軒先を借りた程度の、敢無い親しみしか、彼とはついに築けなかった。数年後の契約失効が定まった冬も、現実に失効を迎えた夏も、何を措いても留めたがるほどの熱は、私のなかの、どこにもなかった。

お互いそういうところが嫌いでなかったのだろう。
幸いにして、私達は、悲劇にはなりようがない。あるとすれば、ただ潮時というもの。今さら、好きも嫌いもなかった。最初から両方だったのだから。

「そこまで言うなら、借りていってやる」

長い沈黙を破った彼の声は、雨音には不釣り合いなほどに、無味乾燥な響きだった。
チェスの駒を置くように彼はきっぱりと言い、私が錆びた掠れ声でハイと応えるのを待たず、あっさりと背を向けて歩み去る。

私は、彼の背中をを見送らない。彼だって、我々の現状を勘案して捻り出したぎりぎりで言葉を選んだのだから、如何な三枚舌と雖も、これ以上饒舌にはなれまい。もう少しだけ、などと血迷わない。そんなことは有り得ないと二人ともが知っている。

額に張り付いて鬱陶しい前髪を、空になった右手で掻き上げると、私は踵を返す。見れば、開け放したままだった玄関口に、雨が降りこんでいる。己の身体からも三和土にぼたぼたと水を落としながら後ろ手に引き戸を閉めると、ざあざあ五月蠅い雨音がやんで、怖いほど静かになった。

扉一枚を隔てて、くぐもった雨音が、まるで遠くで響いている。遠ざかる跫音など聴こえはしない。随分と、まあ、遠くへお越しになったもの。ぬるい陽の光に照らされる雨粒、その一つ一つが、この苦くも美しい国を映すのを、彼は見ただろうか。彼の国とは、雨の味も違うだろう。まるで膚を舐めるような、涙に近い熱さも恐らくは。

私は首元のホックを外し、大きく息を吐いた。この国の雨季は息苦しすぎ、和傘と紫陽花に、軍装はいかにも不釣り合い。しっとりと雨に濡れ、蝸牛を乗せた紫陽花には、軽やかな麻の着流しが似合う、それくらいの風流は私とて持ちあわせているが、御生憎様、それじゃ生きて行かれない。

雨のよく似合う紫陽花を、園芸好きの彼はそういえば、頻々と褒め称えていた。私のところから持ち出したのを改良したのだと言って、ご自分の庭園に沢山植わっているのを披露してくれたのを覚えている。雨と霧の国に咲く紫陽花は大層美しく、それは、当時の世界が許したぎりぎりの、何かの比喩だったのかもしれないが、もはや過去の幻にすぎない。

花の色は容易く移ろって、いつ止むともしれぬ長雨の間に、私も彼も、世界とて、すっかり変わってしまうことだろう。彼は私を侮って高を括っているが、私は爪痕くらい、否、傷跡くらいは残してみせる。そうしたら、彼は一体、私をどんな貌で見るだろうか。想像するだに笑いがこみ上げる。可笑しいじゃないか、何もかも。

漏れた嗤い声は、己の耳にもうすら寒く響いて、あっという間に心が冷えていく。
時代は確かに遷ったのに、世界はまるで相変わらず。私たちは、世界が許すぎりぎりで、いつも言葉を探し損ねて、ろくにものも言えずにしんと静まり返っている。他愛ない夢を、あるいは執着を、他でもない自分自身が許せない。何時でも躊躇わずに零せるのは自嘲だけだ。

―― ごきげんよう、さようなら。私の敬愛するおともだち。

彼の眼が若草のようにつやめく美しい碧だということは、どんな終りが来ても忘れないでいたいと、初めに決めたはずだった。今、私はそれを忘れられた訳ではない。それほど強くはなかった。ただ、感傷は現今の殺意を鈍らせないだけのこと。

蛇の目だって、どうせ、御傍には置いてくださるまい。
黴臭い物置で腐り果てるくらいなら、せめて手ずから棄てていただきたいものだ。




あなたのいない雨上がり
( title by nikogori