再来する音
ぽろぽろ、雨粒が紺色の傘をたたく音が、幾重にも重なる。すでにぐっしょり濡れてしまっている僕の身体はきっと、新しい水滴を避けたって決して乾いたりはしない、だから、いいのに。そう思うけど、声に出すことはできなくて、雨傘から逃げるように、俯いた僕は右隣を歩く彼から離れて歩こうとする。すると司が、左手に持った傘をグイと左に寄せ、僕の上に差し掛ける。
「よけるなよ。濡れるだろ。」
差し掛けながら、彼は呆れの混じった声で言った。司のあまりに普段どおりな口調が信じられない僕は、思わず顔を上げてしまって、すぐに後悔した。
――ちっともいつも通りなんかじゃない。繕い切れない真剣な眼差しが、僕の濡れた全身を貫くようだ。
「顔も拭け。」
竦む僕を励ますように、尊大な口調で肩掛けのスポーツバッグからタオルを取り出し、投げつけるのかと思ったら、司はそっと僕の頬に当てた。
左手は傘の柄を掴んで僕が濡れるのを許さず、右手は柔らかい綿の感触で頬を濡らす雫を吸い取る。
なんてすごい。僕はただ、黙りこくって突っ立ってるだけなのに。司は、どうして。
「……どうしたんだ?」
彼が、不意に怪訝そうに問いかけた。僕は答えないまま、彼の右手からタオルを奪う。途端に、ぁ、と喉がへたくそに声を漏らし、奪ったタオルで僕は急いで顔を覆った。
声が漏れないように。息遣いが覗けないように。頬を濡らすものが解からないように。
「泣いてるの?」
司は注意深く尋ねたけど、僕が頷けるわけがなかった。だって、みっともないじゃないか。彼の穏やかな視線を感じて、ますますいたたまれなくなった僕は、堪えて隠すことに必死だった。呆れたように見つめる彼の表情はきっと、いつになく真摯でやさしいに違いない。
「お前、解り易いんだから、隠しても無駄。」
耳に届いた彼のため息は、案の定、苦笑のように温かく響いた。
ぽろぽろ。それは、雨の音でなくちゃいけなかったのに。僕は子供みたいに声を上げて泣いてしまった。
***紫が鈴の鳴るような声で、「尋くん、」と呼ぶたびに、僕は馬鹿みたいに舞い上がった。顔が熱くなって、普段ならするすると口から零れる言葉も喉の奥で引っ掛かる。「ゆかり」という彼女の名前を、やっとのことで言い終えると、僕の舌はそれでやっと少し調子を取り戻して、彼女を楽しませるべく、ぎこちなくも動き始めるのだ。
彼女が、気が付かなかったはずがない。僕自身でさえ、解り易すぎると呆れるくらいだったもの。
「好きなんだろ。」
だから、司がそう言ったからといって、驚くことは何もなかった。
「なんの話?」
でも僕は、眼を逸らした
――いや、逸らしたつもりで泳がせた。司ときたら、往生際の悪い僕を面白がって、くつくつと笑い声を洩らしている。
「笑うなよぉ!」
「笑うだろ、お前、解り易過ぎだって!」
堪えられない、といった様子でダーク・ブラウンの髪を揺らしてまで笑う司を、僕は恨めしく見つめた。笑うなってば、と叫ばずにはいられなかったけど、それこそ解り易すぎるっていう自覚はあったから、一度でやめた。
ひとしきり笑うと、司はフウとおおきく息を吐いた。
「ユカリ、だっけ?可愛い子じゃないか。」
「……うん。高嶺の花ってやつだ。」
不本意ながら認めざるを得ない。僕なんかとじゃ、釣り合わないってことは。
「そんなこと言ってないだろ、お似合いだよ。だいたい向こうだって、全然その気がないならわざわざ尋と帰ったりしないだろ。」
「そう、かな?」
僕は単純だった。司にそう言われて、すっかりそうかもしれないという気がし始めてる。
「そうだよ。お前、解り易いんだからさ。」
余計なお世話だ。でも、そうかもしれない。冷静に、客観的に見て、もしかした紫も僕のこと、まんざらでもなかったりする?
僕の回らない舌を笑いもせず、呆れもせず、にこにこと楽しげに話を聞いてくれる彼女の優しさに、トクベツな何かが、ひょっとしたらあるんじゃないかと、彼女が僕の名を呼ぶ度に考えていたけれど、それは単なる僕の願望でしかないと思ってた。
――でも、司がそう言うなら。
そうかもしれない、そのつもりで頑張ってみようか。そんな気がしたんだ。
*** その日は、夕方から急に雨が降り出した。電車に乗ったときから雲行きが怪しくて、降りたときにはすっかり本降りになっていた。
「紫、傘ないだろ?送っていくよ。」
そう申し出るのに、勇気を振り絞ったのは言うまでもない。
「ううん、いいよ。ありがと。尋くんバス乗らなきゃだし
――あたし、折りたたみあるんだ。」
じゃーん、と悪戯っぽくピンクの折り畳み傘を取り出して見せた彼女に、拍子抜けして恥ずかしくなって。
「そっか。よかった。」
そんなことしか言えなかった。紫は「ちょっと寄るところがあるから」と、駅の構内で手を振って別れた。
その後、いつものようにバス乗り場に向かうと、司はもうベンチに座っていた。僕も隣に腰掛けて、ついさっきあったことを話していたちょうどそのとき。司の視線が、僕を通り抜けてしまっている。
「司?」
僕が首を傾げると、司は珍しく焦った様子を見せた。
「何かあるの?」
「あ、尋!」
司の視線の先を確かめようと振り向く僕を、彼が止めるように呼んだわけはすぐに分かった。
――紫?
折りたたみ、あるって言ってたのに。ちゃんと鞄に入ってるのを見せてくれさえしたのに。
「やっぱり、ユカリ。だよな、」
諦めたように、司がさめた声で告げる。うん、ユカリだ。彼女と一緒に黒い傘に入っている、隣のオトコは誰だろうな。とりあえず、失恋ってやつなんだということは分かった。傘があるのを黙っていたくなる、そいつは紫にとって、そういう存在なんだろうから。
***「落ち着いた?」
「うん。ごめん、つかさ。」
まだ少し泣いてしまった余韻の残る、情けない声で謝って、司に湿ったタオルを返した。
「いいよ。」
「でも。バスも乗らないで、歩かせちゃって……。」
「いいよ、傘借りてるのはこっちだし。」
司は安心させるように微笑むと、左手に持った傘を、くるりと回して見せた。
「ただこの傘、俺の家まで借りてっていいかな?」
いつもバスを先に降りるのは僕だったから、司の家がぼくより駅から遠いのは知っていた。僕はもちろんそのつもりだ、と頷く。
「ありがと。」
司は律儀に礼を述べる。僕は慌てて頸を振った。そんなのこっちの台詞だ。オトコのくせに失恋ごときで泣きじゃくってしまった醜態に顔が熱くなるけど、眼を逸らしちゃいけないと思って真っ直ぐに司を見て僕は言う。
「こっちこそ、ありがとう。」
司は驚いたような顔をして、フイと顔を背けてしまった。僕が戸惑っていると、すぐに彼の笑みが戻ってきて、「いいよ」と髪を揺らしてくれた。
――こんなふうにまっすぐ、紫に好きだって言えてたら。
何か変わってたかもしれない。司のぐっしょり濡れた右肩を見つけるとそんな気がして、また少し泣けてきたけど、でも、とりあえず大丈夫だと思った。
紫の隣に居た誰かの肩も、きっと濡れていたに違いない。
*** ぽろぽろ、尋に借りた傘を雨が叩くその音。ふと足を止め、味わうように耳を傾けると、それはまるで嘘つきな自分を責めるようだった。もう隣に尋はいない。安心して溜息がつける。今頃、尋はきっと熱いシャワーを浴びて、身体を温めているところだろう。
吐いた息を取り戻すように深呼吸をして、司はのろのろと歩き出した。
*** 司のスポーツバッグに、紺色の折り畳み傘が入っていたことを、またその意味を、そのときの僕は、まだ知らなかった。