Azoth
或いは、カンバスにおける虹彩の色 |
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#1 月明博士の実験は佳境を迎える
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月明博士はぼくが帰ってくると必ず「おかえり。今日は、学校は楽しかったかの?」と尋ねる。 今月のぼくの返事はいつもおなじで、「うん、楽しかったよ」と答える。だって、楽しくないなんてほとんどありえない。なんたって、隣の席に降矢がいるんだから。 すると、月明博士は「それはなにより」と決まって三回頷き、頷き終わるとすぐぼくに興味を失って、銀色のながい髭をなでながら、ふわふわした色合いの漏斗だの二股試験管だのに向き直ってしまうというのがいつものお決まりだ。 きのうは降矢と美術教室にいたせいでぼくが帰ったのはけっこう遅い時間で、ちょうど実験の佳境あたりだったらしかった。いつもの質問に対し、ぼくが「うん、」と言い始めたときすでに月明博士は頷き始めていて、二回半くらい頷いたころにはもうぼくのほうなんか見てやしなかった。そのことにきのうのぼくはちょっとむっとしたけど、薄紅色のフラスコのなかで丸まっている狐の尻尾みたいな紫色の靄が、アクアマリンの原石に溶けてぱちぱち鳴るのを見ているともうどうだってよくなってしまった。 結局きのうは、ぱちぱち鳴るマーブル模様のアクアマリンが、朝顔の種になるところまで見届けたのだっけ。 そしてきょう、美術室に降矢を残したまま、ぼくがめずらしく一人きりで学校から帰ってくると、月明博士はきのうのつづきをやっていた。 満月形のシャーレに例の種がひとつぶ、博士が左手に構えるピペットの中の薄青の液体はなんだろう。ちょっと紫がかって、まるで菫青石を水晶にしたみたいだ。 「ねえ月明博士、その青いのはなんの液体?」 きょうにかぎって「ただいま」よりも前にぼくがそう尋ねたのは、ピペットを構える月明博士の背中に、カンバスに向かう降矢のそれがだぶってみえたからだ。博士よりもするどく研ぎ澄ましたしぐさをする降矢も、そんなふうに、黒い種に煌きを足して、新しい宝石を絵の中に生み出そうとしている。 「これか。これはな、ラムネ・ソーダを結晶させて作った《強・ラムネ・エキス》とでも言うかな。」 ぼくのかおを見ないまま答えた月明博士は、ピペットの中身《強・ラムネ・エキス》を朝顔の種のうえに三滴垂らした。その三滴がおちるあいだぼくはじっと息をつめてまっていたけれど、博士はぼくの帰還にまったく気づいていない。それでも声は聞こえていて答えはくれるところは、はらがたつけど降矢に似ている。 やがてシャーレのなかでしゅわしゅわと青い閃光がきらめいたかとおもうと、種はまるで線香花火のさきっぽの丸いかたまりみたいに凝った。でも線香花火と違って青い輝きで弾ける。月明博士はゆったりと髭を撫でながらも、いつになくするどい目つきでシャーレの青花火を見つめていたせいでますます降矢に似ていた。この青花火にたったひとひらの白でも混じろうものなら決して逃しはしないと言いたげなはりつめた目だ。 ぼくは、博士ほど思い詰めてこの閃光を見つめることはけっしてできない。だけどぼくはたまに紫のまじる青い閃光から、眼を逸らそうとして失敗した。だってきょうの降矢は青と紫の実験に夢中だった。 ――なんでいちいち青だの紫だのを置こうとするの?目なんか黒にきまってるんだから、黒くぬっとけばいいじゃないか。 降矢にそんな言い方をしてしまったのは、たぶんぼくの本心そのものではなかったとおもう。ただ、ぼくの眼にはもうじゅうぶんに美しい彼の絵に、降矢本人が欠損を見出すのがふしぎだった。 たったひとことであんなに怒ること無いじゃないか、というきもちはまだある。けれども、はりつめたまなざしに見つめられて生まれるものは、そうでないものよりも抗えないちからでぼくを惹きつけるのもたしかなことだと、ぼくはしゅわしゅわ光る青を見ながら考えた。 ぼくがそんなふうに見つめていると、ふいに月明博士は机の左端に置いてあった綿飴のかたまりを千切った。真っ白い綿飴を青花火の種の上にのせると、しゅわしゅわの火花は綿飴におさえこまれて勢いをなくしてゆく。しかし白い綿飴は青花火の勢いを食い止めるうちに自らも青に染まってしまい、ところどころ紫がかったきらめく綿飴ができあがった。 そして月明博士が次にとりだしたものは、薄青硝子ビーカーと、細かく砕けた白銀色の卵殻の入った壜だった。 博士は白衣の右ポケットに入っていたピンセットで菫青綿飴とそれにくるまった朝顔の種をいっしょくたにつまみあげ、青硝子ビーカーにしずめる。ビーカーの中には油のようなどろっとした液体が入っていたようで、綿飴はビーカーの中ほどまで沈むとそこで静止した。月明博士は厳しい目つきでそれを見届けると、ピンセットを薬匙に持ち替え、壜のなかの卵殻を一さじ、ビーカーに投入する。卵殻はふしぎな引力にひきつけられるように綿飴のまわりにあつまっていった。奇妙なことに、卵の殻はどんなちいさな破片でも、みな自分のいるべき場所を心得て正しい位置でぴたりととまる。綿飴が卵の殻に覆われてみえなくなるまで、博士は卵の殻を入れ続けた。 破片の集合体はいまやすっかり完全な卵のかたちをとっていた。殻と殻の境目は一瞬ごとに失われ、どういうわけかそれといっしょに不透明性までも失い、中心で呼吸する黒い種と菫色のきらめく青い綿を、ただ透明白銀の輝きだけが卵として取り巻いている。 ビーカーの硝子越しに見ているだけで水晶のように硬い質感を感じ、ぼくは息を呑んだ。 「よしよしよし!」 突然大きな声がして、ぼくは飛び上がりそうに驚いた。月明博士は普段ぼそぼそとしゃべるのに、実験中のひとりごとだけはいつも妙に元気だ。こういうところは降矢とまるで違う。降矢はいつも落ち着いてきっぱりと話すし、ひとりごとはぜんぶ頭の中で終わらせてしまうやつだ。 「青色アゾートの卵がようやっと完成じゃ!これでもう孵化を待つばかり……。」 月明博士はまた大きな声でここまで朗々と述べたあと、ふいに、何かに気づいたかのように勢いよく振り返った。博士の色の薄い目がぼくの目をまじまじと捉え、何度か瞬きをした後、口を開く。 「おお、帰っておったのか――。おかえり。今日は、学校は楽しかったかの?」 さすがに、きょうは「うん」とは言えなかった。 「ううん、きょうはだめ。降矢を怒らせちゃったから。」 つぎのページ 2010/5/28 |