Untitled (La Mer d'Apollinaris)


* * * * *


むかし箒星の尻尾が通っていったという街に滞在している。

偶然入った食堂で教えられた安宿を訪ねると、愛想のない中年男が物も言わずに鍵を投げ寄越してきた。受け取ると、男は階段を顎でしゃくる。室は二階らしい。手すりのささくれた階段を上がると、番号の付いた扉が三つ並んでいた。鍵に付いた木札には3とある。3の扉は一番左だった。

室内には、小さなベッド、小さな机、小さな椅子、小さな窓、それぞれが一つずつあった。窓と扉のない壁面には、小さな画がやはり一枚ずつ掛かっている。

入り口の真正面、薄汚れた白い壁の中にぽっかりと浮かんだ窓は正方形で、碧がかった青を切り取っている。抽象絵画のように漠然とした青い空と海。ほかには何もわからない。窓硝子に頬をくっつけて見つめても、羽目殺しの窓が見せるのは、曖昧で現実味のない無機質でのっぺりした青ひとつだった。

自分がいるここが、どんなに遠くなのか、どんなに色々を置いてきぼりに旅を続けているのか。この青になにかが託されているなら、きっとそういうことだろう、などと感じる。つまらない気の迷いだ。あのひとの眼が青でなくてよかったと思う。もし青だったら、おそらくもっと切実になっていた。

私は窓から室内に目を移し、窓側から見て左の壁に掛かった画と、右の壁に掛かった画を見比べた。左は猫の画で、右は鸚鵡の画だった。どちらもへたくそなペン画で、色はついていない。猫はふりむきもしない後姿。鸚鵡はこちらを見て嗤っているように見える。壁どうし向かい合っているけれども、猫は鸚鵡を見ず、鸚鵡だけが猫を嗤っていた。悪趣味な室だな、と私も、鸚鵡のように嗤ってみた。

嗤われているのはほんとうは私のほうなのだろうが、と自嘲して、私は歪な嗤いの収めどころを見失った。


* * *


私が旅を始めて一年ほどしたころのことだ。あのひとは仔猫を飼い始めた。金色の眼をした綺麗な仔で、名前は無い。仔猫は随分と落ち着きの無い性質で、あのときも、仔猫があのひとの珈琲をひっくり返した直後だった。私は零れた珈琲を拭き取りながら、あのひとは毀れたカップの破片を拾いながら、会話はさりげなく始まった。

「飼うなら、子鳥にしとけば良かったのに。ゲージに入れとけば珈琲も零れない」

私は向こうのほうでクッションと戯れている仔猫を見やり、とりたててなんにも考えることなく、思いついたままにそう言った。

「……かもしれないね」

けれど、そう応えたあのひとの声音は違っていて、自分の問いが核心だったことを私は知り、身構えた。しかし、当然(との表現は赦されるだろうか)、あのひとは私を責めず、「でも」と穏やかにつづけた。

「籠に籠めるんじゃ、意味が無いんだよ」

そう言ったときのあのひとの眼は、なにもかもを溶かし込んだような闇色をしていた。冥い淵の深くから透き通った水をくみ上げる、そんなふうに、あのひとは私にそのことばを差し出しだしていた。私は黙りこむほかなく、あのひとがなぜ猫を飼い始めたのかをただ悟った。


* * *


もちろん、あのひとは、本当は猫なんか護りたいわけじゃない。
それを、私だけは忘れてはならない。あのひとが忘れたって、私だけは。

嗤う鸚鵡に向かって、そんなことを呟いてみても、意味は無い。それでも私は無意味にひとりごちる。あのひとは責めたりしない。でもそれはあのひとのなかで取捨選択があり、結果、そうなっただけのこと。あのひとの選択肢のなかには、もっといろいろと、どろどろと、ある。鸚鵡を飼う選択肢があったみたいに。

それでもあのひとは、猫を飼っている。それがどういうことか。それだけは、旅行鞄に入れてどこまでも連れて行かねばならない。あのひとのくれるふかさやおもさが苦しいとしても、画に描かれたみたいに自嘲をとめられないとしても、捨てて行っちゃいけない。

なにもかもかなぐり捨ててまっさらな不幸を生きる。そんな誘惑を、私は嗤わねばならない。

振り切るように勢いよく椅子を引き、床に放り出していた小さな旅行鞄を小さな机の上に置いた。鞄の留め金を外すと、ぱちん、と軽やかな音がする。あのひとの許に帰って荷を解くときも、遠くの青い窓のそばで鞄を開けるときも、同じ音だ。

私は、鞄の口をおおきくひらいて、万年筆と手帳を取り出した。薄汚れた革の手帳には、葉書が挟んである。きのう立ち寄った街で購った、どこにでもあるような景色の絵葉書、それだけを引き抜いて手帳は旅行鞄に戻した。小さな椅子に座って卓上の絵葉書に向きあう。

万年筆の蓋を開け、住所を書き込んだ。書いたのは数えるほどなのに、ちっとも迷わなかったが、住所を書き終えて、迷った。あのひとの名を書きこむ勇気が持てない。

ぐずぐずと考えた末、宛名は仔猫にした。名無しの仔猫どの。ファミリーネームくらいはあのひとのを書いておかないと、郵便配達員が困るだろうか。

それだけ書き終えてまたしばらく考え、葉書の隅に自分の名前を小さく、できるだけ丁寧に書いた。この万年筆は私の名前を書きなれていないから、どうしても少し歪んでしまう。

これはいつだったか、あのひとの仕事机からくすねてきた万年筆だ。あのひとはなにもいわないで、洋墨の替え方を教えてくれた。私は何度やっても上手くできず、いつも黒洋墨が薄れてしまう。いま使っている青い洋墨は、薄くなっても見栄えが悪くないと言って、あのひとが薦めてくれた銘柄だった。

ふいに一滴、青洋墨が音も無く垂れ落ちた。私はぼんやり握って宙に浮かせていた万年筆にあわてて蓋をして、机の端のほうにきちんと置いた。葉書を手にとって確かめると、青い沁みは私の名前を汚して、白い紙面に飛び散っていた。あのひとの住所や宛名の仔猫の文字を汚さなかったことに安堵したけれども、これ以上なにかを書き足す気持ちにはなれず、私は空白と青い汚ればかりが目立つ紙面をただ眺めた。

潮騒すら聞こえない静かな部屋にあって、自分の呼吸ばかりがうるさい。
――吐息は青い飛沫に似ている。
そんな気取った独白を塗り潰すために、私は机の上の旅行鞄を引き寄せた。ぱちんぱちんと音を立てて留め金を外し、故意とガサガサ音を立てて中を探った。あてもなく闇雲にかきまわして、替えの糊衣や下着類、取り出して入れなおした手帳、薄っぺらい財布、そのほか、少ない荷物のほとんどすべてに触った。

それでもなお荷物をかきみだしていると、旅行鞄のいちばん隅のほう、何かの布切れの下に、つるつるした感触があった。心当たりの無い手触りに首を傾げて引っぱりだすと、それは、チョコレットの包みだった。見慣れた錫紙に包まれた板状の、少し溶けかけたチョコレットだった。

自分で入れた覚えは無い。ということは、あのひとが、私の旅行鞄に忍ばせたものらしい。見つかったからよかったものの、気づかずに溶けてしまったら大惨事じゃないか、どうしてくれるとつぶやきながら、旅行鞄の底から救出した。

錫紙にはいちど開けた跡がある。紙を破かないように剥いでみると、チョコレットの角が、少しだけ欠けていた。歪な一欠けらは、きっとあのひとが食べたのだろう。四角くない不器用な割れ目を辿り、私は、あのひとが食べた隣を、ちょっとだけ割った。私も四角い升目に沿わないで割りたかったのに、根が器用で几帳面な私は(あのひとが苦笑するところが目に浮かぶようだ)、ガイドラインに忠実に折り取ってしまった。ちぇっと舌を打ちつつ、私はチョコレットの四角い欠けらを口のなかに放り込む。

あまい、と思った。四角だろうが三角だろうが、食べてしまえば一緒だった。ただ、あまい。ただの、どこにでも売っている、お馴染みのチョコレット。この安宿の隅にあった申し訳程度の売店にだって売っているに違いない。その程度の、ありふれたあまさだ。それは、つまり、

――あのひとが食べたチョコレットの、あまさ。

私はその後、体温に溶けたチョコレットがついた指で迂闊にも葉書を触ってしまい、青い洋墨の飛び散った絵葉書はますます汚れた。もう今夜は葉書には触るまいと決め、チョコレットをもう一欠け齧って、その晩は眠った。


* * *


猫が鳥籠に籠められている。
あのひとは傍らで独り、左手に葉書を持ち、右手には籠の鍵を持っていた。

……そんなゆめを、みた。


* * *


翌朝目覚めると、私は葉書を放置したまま部屋を出、ささくれた手すりを掴まえて階下に下りた。昨日と同じ中年男がカウンタに凭れて新聞を読んでいる。男は相変わらず愛想が悪かったが、言えば売店を開けて朝食を売ってくれた。水が一壜と、黒麺麭、それきりで、チョコレートは無いという。

私が残念そうな素振りを見せると、男は、「この水は有名な火山から採れる名水で、都会へ行けば倍の値が張るんだぞ」、と早口でもごもご言って、すぐまた新聞に顔を埋めた。慰められたのかもしれない、と気づいて、私は嬉しいより呆気にとられ、小さく会釈するとすぐに階段を上がって室に戻った。

食べ物を持って3の扉をくぐり、小さな椅子に腰掛けて、汚れた葉書と食べかけのチョコレットをそのままに、水の入った壜を眺めた。透明な壜に透明な水が収まり、窓に透かせば青、壁に透かせば白、画を透せば猫で鸚鵡だった。ただ、壜に貼られたレッテルの文字だけが、常に黒々と鮮やかだった。


   Apollinaris


アポリナリス。これはたしか、何世紀もまえに殉教した聖人の名だ。なぜそんな名がつけられたのだろうとぼんやりした不思議を抱きつつ、アポリナリスの壜を開けた。壜の口に直接唇をつけ、一口含むと、水は舌の上でぱちぱちと弾けた。発泡性の硬水らしい。意外な味わいに驚きながら、黒麺麭を齧り、また水を飲んだ。硬い麺麭の無骨な風味と、発砲水の爽やかな刺激が咥内にひろがる。朝が来ても昨夜とまるで変わらぬ様子で静まり返ったこの白く青い部屋にあって、初めて訪れた変化らしい変化だった。

麺麭を食べ終えてもしばらくのあいだ、口の中で弾ける泡を転がしていた。アポリナリス。アポリナリス。その呪文のような名まえも、泡といっしょに何度も転がした。アポリナリス。

私は透明の壜を右手に持って掲げ、小さな室のあれこれをもう一度透かし見る。左の壁の猫。右の壁の鸚鵡。窓の青。白い壁。寝台。チョコレート。青い沁みのある絵葉書。壜の透明を通して、それらは少しずつ歪み、そのすべてが、アポリナリスの文字を浮かび上がらせる。

ここにあるものを数えて、それぞれに意味を探している。鸚鵡はまだ私を嗤っている。猫は夢で籠の鳥だった。でもあのひとの眼は青ではない。チョコレットは溶けずに見つかり、黒麺麭があって、アポリナリスは弾けた。ぱちぱちと、星屑のように弾けて、私は、昨晩星を見なかったことを思い出した。


* * *


アポリナリスの壜の中身が半分ほどに減ったころ、私は机の上に置きっぱなしだった葉書に、文章を書き加えた。名無しの仔猫に宛てて、二言三言。


   どうかおまえ、いまはあのひとにまもられてやってくれ。
   きっとすぐに、かわるから。


私は宿の主人に郵便局への行きかたを尋ね、安宿を後にした。
箒星の尻尾は、まだ掴めないでいる。



FIN.







Thank you : Tyny tot , hadashi