扉を開けると、そこは夜汽車の中だった。四名一室の二等客車らしい。

緑の天鵞絨張りの座席には、魔女のように黒いドレスを着た鷲鼻の婆さんと、高価そうな三つ揃いを来た青年が向い合せに腰かけている。婆さんは隣の空席に、ボストンバッグだの帽子箱だの鳥篭だの衣装ケースだのを山のように積み上げており、対して、三つ揃いの彼のほうが身なりはいいのにごく小さな旅行鞄一つを置いているきりで、外套さえ持っていないようだった。

私が入りこんでも婆さんは顔も上げず、眼を開けているのかどうかもわからなかったが、十八かそこらに見える青年は、曙光にきらめく夜露のような、濡れた金色の眼差しで私を見た。彼は力無い動作で、それでもきちんと鞄を座面からどけ、自分のひざの上に載せてくれた。私は軽く会釈して、彼の隣に腰掛ける。

座席に深く沈み込んで、気が付くと、私は旅行者にふさわしく黒い外套と、古びたトランクを手にしていた。それはキャメル色の箱型で、表面は沢山の疵とインクの染みで薄汚い。トランクの中は殆ど空に近いらしく、足元に置くと汽車が揺れるたびに、からからと音を立て、何かが転がってはぶつかった。

隣の青年は、物音にも特に迷惑そうではなく、というよりは、それどころではなく憔悴した様子で座席に凭れ掛って真っ暗な車窓を見つめている。硝子に映り込んだ顔は端正だったが、顔色はひどく蒼い。苦しげな息遣いだった。乱れて落ちかかった髪が、汗に濡れて額にはりついているのが鬱陶しそうで、時折けだるげに払いのける指は細かった。

彼の身体は、寒いのか、少し震えている。風邪か? それとも、もっと重い病気だろうか?

私は手にしていた外套を、迷惑かもしれないと思いつつ、青年の身体に掛けてやった。彼は少し驚いた様子で私を見上げたが、消え入りそうな声で礼を述べ、もぞもぞと動いて外套に包まった。

相変わらず苦しげに熱い息を吐いているが、しばらくすると震えだけは収まったようだったので、少しは役に立てたらしい。
もっと何か役立ちそうなものは持っていなかっただろうかと、私は足元のトランクを取り上げた。留め金を外し、口を開けて中を確かめてみれば、中にあったのはたったひとつ、小さな硝子壜ひとつきりだった。試験管ほどの細長い壜の中には白い飴玉が数粒入っているだけで、それ以外には、塵ひとつ出てこなかった。

仕方がないので、飴玉でも何かの足しになるかとすすめてみると、彼は窓に凭せ掛けていた蒼白い顔をちょっと綻ばせた。知らない男がそんなものをすすめて寄越すのがおかしかったのかもしれない。迷惑かと一旦はひっこめかけたのだが、「下さい」と言われ、手のなかに、飴玉を一つ載せてやった。

青年は白い飴を摘み上げて口に入れると、「薄荷だ」と掠れた声で云った。嫌いだったろうかと心配していると、心配が伝わったのか、「薄荷は好きです」と付け加えられてほっとした。

しばらく薄荷飴を舐めていた青年は、まさか薄荷飴の効用ということもあるまいが、だんだんと顔色が戻ってきたようだった。私も安堵して、壜に何粒か残っていたのですすめると、彼は残りを壜ごと貰ってよいか尋ねたので、「勿論」と答えてやった。「有難う」と云って壜を受け取ると彼は、ひざの上にあった小さな旅行鞄に仕舞い、そのまま鞄を持ち上げて立ち上がった。

急にどうしたのかと驚いたが、いつの間にか夜は明けたらしい。真っ黒だった窓には朝日がさしこんでいる。すでに白鳥の去った湖に、菫と橙のまじりあう天のいろが映っているのが見えた。汽車はすでに減速を始めている。もうじきに駅に着くのだ。黒服の婆さんも目を覚まし、慌ただしく荷をまとめ始める。

青年は去り際にもういちど礼を述べ、かすかな笑みだけを残して、あっさりと扉の向こうへ消えていった。

彼の掛けていた座席には私が掛けてやった黒い外套だけが残った。
身なりからして、そこそこいい家の出だろうに、着の身着のまま独りで家出したような、いわくありげなようすが気にかかる。私は、外套を手に取って、空っぽのトランクを置き去りに席を立った。

――私の外套を持っていきなさい。

そう云ってやろうと、金鍍金のノブを回し、押し開こうとしてつんのめった。変わった造りだ、内開きなのかこの汽車は、などと思う間も勿体無い、急いで扉を引く。すると、カチャリと、ドアはさりげない音をたててすんなりと開いた。

しかし開かれた扉の向こうには、もはや、汽車も停車場も通路もない。
彼とは別の駅に着いてしまった私には、あの子の姿を見つけられなかった。





(2014.3.02)




material by Quartz