扉を開ければ、やっと、十二日ぶりの我が家だ。
いまいましいことにここのところ仕事がたてこんでいて、職場に泊まり込みが続いていた。彗星が数十年ぶりに廻って来るからといって、どうしてこんなに忙しくなるのだか、私にはさっぱり分からないが、街なかがごちゃごちゃと混乱してしまった以上、放り出すわけにもいかなかった。
蝙蝠傘やら自転車タイヤのチューブやらを身にまとい、よくわからない理論で彗星の襲来から身を護ろうとするひとびとは、怖いもの見たさなのか、長く尾をひいてかがやく不思議な星から目が離せないようだったが、できることなら私だって、そのうつくしく蒼白い火をいつまでも眺めてみたかった。
実際には、そんな暇はほとんどなく、仕事の合間に職場の窓から見える時間を見計らってちょっと目をやってみるか、街に出たときに天を見上げる暇を数秒捻出するのでせいいっぱいといったところだった。真っ当に天体の不思議にひかれている私のような人間は数十年ぶりに訪れた機会を一向に堪能させてもらえず、箒星なんか来なければいいと思っている人間だけが仕事を放りだして食い入るように見つめているのだから、世の中はうまくいかないものだ。
ここ何週間か世間を騒がせた彗星は、地球の空気を奪うことも、激突して爆発させることも、地上の人間を吸い上げて飛んでいくこともなく、ただ静かに、名残のような尾を曳いて、孤独のまま去って行った。
終ってしまえば、街はあっさり日常を取り戻し、蝙蝠傘はいつもの傘立てに放り込まれ、自転車のチューブはそんなものなかったかのように仕舞いこまれた。あれだけ大騒ぎしたのをみんなして忘れ去ろうと頑張っているのか、それはもう拍子抜けするほどの速度で自体は収束し、駆けずりまわっていたのが嘘のようにあっさりと勤務は平常に戻った。
どこか遠い街で、彗星の尾を探していたであろうあの子も、この街に戻ってくるという。
箒星の尻尾は猫のようなのだと、いつだったか手紙に書いてくれたのを思い出す。だとしたら、あの子は、自分の尻尾を追いかける犬みたいな猫だ、と、言葉遊びのような思いつきに一人笑ってしまったのを、今夜話して聴かせてやらなくてはいけない。
世界じゅうどこでも我が物顔で闊歩しているように見えて、猫は案外、半径数百メートルの範囲でしか行動していないのだそうだが、あの子は、現実の猫よりもイメージのなかのそれによく似ている。世界旅行者は世界のあちこちよりもさらに遠く、天の川銀河さえ超えて別の宇宙まで旅してまわって、ときおり気紛れに、たとえば彗星が去ったとかのタイミングでこの街に帰ってくる。
今回の帰還は、どれくらいぶりになるだろう。数えて言って見せると、密かに罪悪感を溜めているらしいあの子には私が不在を責めているように聞こえるらしく、拗ねた振りで傷ついたような顔をするから、滅多に言わないようにしている。
とにかく、今日は、あの子が家で待っている。
最終列車で着いて駅から歩いてきたのだとしても、もう一時間は前のことになるはずだった。もしも夜汽車で今朝着いていたのだとしたら、ずいぶんと待たせてしまっているだろう。すでに時刻は深夜といっていい。天高く白鳥座が翔けるのを、あの子は寝室の窓から見ているだろうか。今夜は月明かりが邪魔をしない。名高い橙と緑の二重星が、あの子の、猫のような色の虹彩に映るのは、なんと素敵なことだろう。
それとも、もう待ちくたびれて、猫のように、まるくなって眠っているかもしれない。もっと幼かったころまでは居間のソファで横になったきりで朝まで寝て起きなかったものだが、近頃は、私の寝台の真ん中で、シーツや毛布、時には置きっぱなしだった私の上着なんかに、埋もれるように眠っているほうが気に入っているらしかった。
もちろん、そんなことは、どちらだってかまいはしない。
逸る気持ちのままに勢いよく押し開けたドアの向こうは、十二日前に出勤した時と変わりない様子だった。作りつけのシューロッカーのうえには、置き忘れたカフスの函がそのままになっているし、薄く埃の積もったタイル張りの床には使いっ放しの靴箆が投げ出されている。今は片付ける間が惜しいので、足早に玄関を通り抜けた。
明かりを付けないまま足を踏み入れた、広くもない狭くもない廊下。
そこに、見慣れないものを見つけて、思わず目を瞠る。そして胸を躍らせた。
――十二日前にはなかった、小さな青い粒が、廊下のあちこちに散って煌めいている。
あの子が彗星の氷の粒を掬ってきたのか、それとも、青い群星だけを映し出す、プラネタリウムでも造ったのかと、石張りの床に膝をついて目を凝したところ、青の粒はただの光ではなく、ひとつひとつ形のある物質であった。見ためより薄くまるいそれは、一粒を拾い上げてみれば、それは、僅かに濡れた花弁に違いなかった。
蒼玉よりは青金石に似た色の、花の名など分かるわけもないが、細かに襞のある小さな花びらが、明りのない廊下に点々と散って、彗星のごとくきらめいているのだった。
――会いたかった、長かった、帰って来てくれてよかったことだ。
道標のように続く青い花弁にみちびかれ、私は、見馴れているはずの廊下をかつてない胸のざわめきとともに進んでいく。外套の釦を外しながらの短い道程は、まるで、幻燈機の映し出すまぼろしのうえを歩くようだった。
もういつのことか忘れてしまった遠い昔の、アブサンに火を点けて見せてやった夜の青い焔色、壜にぶつかって鋭い音を立てた義手の鈍色、床に零れたアブサンの魔法めいた薄緑色
――青からはじまって、とりどりに浮かび上がる記憶のなかを、私は足早に過ぎて行った。
あの子が待っているだろう寝室は、この廊下の尽きたところにある。奥からは、勝手に取り出して蓄音機にかけたらしいピアノ曲が流れているのが聴こえてくる。
聴きつけないクラシックのレコードは、酔っぱらって気紛れに購ったきりだったのを見つけられて、ある夜、二人で初めて聴いた。その、いつだか思い出せない夜とそっくり同じ音色で、静かだったピアノ練習曲は、寝室に近づくにつれだんだんと大きく盛り上がっていく。
こういった種類の音楽の良し悪しなどまるで分からないが、抒情的、と表現するのが間違いでないだろうことは分かる。そしてこのピアノ曲には、誰かが勝手に付けたらしいタイトルがあることを私もあの子も知っていたが、一度も口には出さなかった。
はしゃぎまわるような曲ではないが、あの子はピアノに合わせてダンスでもしているのが、それとも退屈に任せてただ暴れているだけか、ぱたぱたと、足音が聞こえはじめる。ドアの向こうの、寝室の中から、間違いようのない跫音がしている。
もう遅いんだから、眠っていればよかったものを。起きて待っていてくれたのだろうか。
悪い夢を見て、目覚めてしまったのでなければいいが。
私はついに寝室の扉の把手に手をかける。
金鍍金の真鍮を握る、己の右手を何とはなしに見つめながら、渦巻くように広がっていく音楽と、ちぐはぐな足音に耳を澄ませた。長い不在を生きる、互いにとっての日常が、どんなにおおくの夢想を造りだすことか。それが希望だか絶望だか、そのどちらも、私はとうに知っている。あの子だってそうだろう。
道を確かめるように足下に視線をおろせば、寝室へつづく扉のしたの隙間からも、青い花弁が零れていた。思い出と呼ぶつもりのないまま、いつしか重なっていた過去のまぼろしが、白くなりきれない焔をあげて燃えるなら、きっとこういう色だろう。さもなくば、去って行った青い鳥の羽根とでも言おうか。あるいはただの青い水たまりのほうが、私には相応しいか。
何百回も開けたはずの、それでいて現実感のない扉。
これを引き開けた瞬間から、ただの夢はまたたくまに明晰夢に変わってゆくだろう。そして、ここに、あの子はいないと気付いてしまうんだな、と私はすでに悟っている。
彗星にも軌道はあって、円く閉じた環のうえに私がいるかぎり、何度でも廻ってくるはずだった。けれどもその半径が、永遠に近いことがあるのも、お互いちゃんと知っている。
金色の把手をにぎる私の手は、蒼白く、つめたくなっていた。何度似たような夢を繰り返してもその度に知る。不在を生きることがどういうことか。思い知れと誰が言っているんだか知らないが、あの子が私に忘れるなと云っているなら可愛いなと詮無いことを考えながら、私は、寝室へつづく扉を引き開ける。
無論、その扉の向こうには
―――…
(2014.03.02)