硝子戸を引き開け、室内に滑り込むと、二月の凍てつくような空気が背後からするりと忍び入ってくる。 外気を絶つように後ろ手に戸を閉て、室の中央に置かれた石炭式ストーブが赤く燃える様子にほっと息を吐いた。

* * *

降り立つ人も少ない、東部地域の北の外れ。白鳥の越冬地としてだけ名高い土地だ。 駅はちょうど白鳥の飛来する湖畔にある。待合所は窓を広く取り、透きとおった硝子を嵌めて、白鳥の観察所を兼ねた造りになっていた。次の汽車は30分後だという。

ストーブの上にはしゅうしゅうと音を立てた薬罐がある。脇には黒々と口を開けた石炭袋。右手の壁には黄ばんだ時刻表が一枚。反対側には、濁った硝子壜やら塗装の剥げた容器類の並ぶ古びた戸棚があった。

木製の長椅子はストーブを取り囲むように並んでいる。先客はひとりきりだった。部屋の一番奥の窓側、白鳥のいる湖から背を向け、戸口を真正面に見られる、ストーブからはあまり近くないところ。硝子戸の傍にある壁時計を見つめていた彼は、私が彼の向かいの席に腰掛けようとする段になってはじめて、闖入者の存在に気付いたようだった。

時計しか見ていなかったらしい金色の眼は、今は正面に腰掛けた私を真直ぐに捉え、揃いの色の睫をぱちぱちと上下させていた。彼は相変わらずの軽装で、あまり暖かくなさそうな茶色い外套の前を掻き合わせ、その途方もないような長旅とは似つかない、小さな旅行鞄を携えている。

前に会ったのはいつのことだったか。過ぎた時間を数えかけ、答えの出るより前に、とにかく久方ぶりの彼の変わらない在り様に私は知らず笑みを浮かべていて、彼は、私の眼眸から逃げるように目を逸らした。

「君はどちらへ?」

そっぽを向いて何かを堪える顔をする彼に笑みを深くしながら、短く訊ねる。
彼は一瞬きゅっと唇を噛むような仕種を、気のせいかもしれない、見せたか見せないかして、やはり短く応えた。

「北へ」
「……私は東部へ戻るところだ」

言いながら、壁に貼られた時刻表を、私はできるだけさりげなく眼でたどる。背後の壁時計を見上げることはせず、ベルトに繋いだ懐中時計を引き寄せると、銀の蓋に手を掛ける前に彼が口を開いた。

「あと15分ってとこ」

そうか、と頷きながら時計を仕舞った。さらさらと時が零れ落ちてゆくのが聞こえるようだ。チクタク五月蠅いものは一つでも多く隠しておかなければならない、意味も無くそう思うのは、視界の隅の黒々とした三つの針を、どうしたって、彼は見失えないだろうからだ。

「まだ間があるだろう、珈琲でも入れないか」

大きすぎる秒針の音から逃れるように零れた言葉が、さりげなく聴こえたかは自信がない。ろくに現実感がないのを隠して、もう何度も同じ日を繰り返したような顔をとりつくろいながら、彼の応えを待たずに私は立ち上がり、壁沿いの棚にある珈琲の壜といくつか並んだカップをしめした。

「そんなの、勝手に貰っていいわけ?」

彼はわざとなのかそうでないのか、ごく日常めいた口調で咎めてみせた。密かに安堵しながら、構わずに壜の蓋を回し開けると、室内に珈琲の匂いが立ちこめてゆく。香りにつられた彼も旅行鞄を放り出して立ち上がった。けれど彼は壜には触らず、なぜかしばらく棚の周りを検分しはじめる。
そして、そのうち何かを見つけたらしく、彼は戸棚の傍に貼られた小さなラベルを得意そうに指差した。

《Please help yourself.》

群青の縁取りがついた、マーマレード壜にでも貼るような細長いラベルには、眼を凝らさないと見えないほど薄らと、元は赤かったであろう文字でそう記されていた。

「ご自由にどうぞ」とラベルがいうなら遠慮はいらない。すばらしい発見に満足げな彼は、すぐに私よりも遠慮のない仕草で棚を漁りはじめ、間もなく、スプーンやら砂糖壺やらをどこからともなく見つけ出してみせた。

そしてじつに自慢げに笑って見せた、その顔は彼の幼さに似合って実に他愛ない様子だったので、私は奇妙な切なさと微笑ましさを同時に覚えたのだった。

* * *

彼は棚の上に二人分のカップを並べ、壜の中に埋もれていたのを掘り起こした薬匙でそれぞれに同量の珈琲粉末を掬い入れてゆく。私はストーブの上の薬罐を取り上げると、彼の差し出す無骨なカップに、努めて同量の湯を注いだ。すると彼は薬匙をティースプーンに持ち替えてかき混ぜる。

ふたりして科学実験でもしているような几帳面さで珈琲を作ると、ストーブに薬罐を戻してから、それぞれにカップを取った。

彼は、一口めをこくりと呑む。
熱かったのか、彼はすぐにカップから唇をはなし、ちらりと、一瞬舌を見せて顔を顰めた。そのうち私の視線に気づいたのか、咎めるような眼眸を寄越したが、その眼のなかには、どこかあまい色があるような、あるのを見つけたいような、そんな気がして、私は結局苦笑するくらいしかできなかった。

彼はやがて、私を睨んだ眼元をゆらりと揺らがせ、じぶんのカップの中で珈琲が湯気を立てるのをそっと見下ろす。右手で取っ手を持ち、左手を温めるようにカップに沿わせ、ぬくもりを沁みとおらせるような、わざと火傷でもしたがるような仕種でいたかと思うと、不意に砂糖壺に手を伸ばした。

――そういえば、彼はいつも、砂糖を二つ入れていた。

これまでに彼と共有してきたのはごく僅かの場面であったけれども、それだけは不思議と思い当たった。彼は先ほどと同じく実験の一連のような手つきで、砂糖壺のなかの角砂糖を摘み上げると、珈琲の注がれたなかに落としてゆく。ひとつ、ふたつ。蓋を閉じかけて、やはりもう一度蓋を開けて、左手を宙で迷わせた後、さいごにみっつめの角砂糖を、珈琲の中にそっと落とした。

彼は、そしてもう一度私を見上げた。
視線に促されたような気がして、私が自分の分の珈琲カップを差し出すと、彼はその中にも、ひとつ、角砂糖をちゃぷんと落とし、今度こそ砂糖壺を閉じた。

彼に倣って私も手許に目をやれば、同じように角砂糖がほろほろと崩れてゆくのが見える。白かったそれがやわらかなブラウンに染まって、じきに跡形もなく融け去っていくのを見つめ、また、見つめる君の幼い眸の熱を、私は視界の隅で掠め盗って、瞬きのふりで刹那だけ目を瞑り、瞼の裏にそっと灼き付けた。

そして彼は珈琲のふたくちめを、私はひとくちめを、ゆっくりと口に運んだ。

どこに落ち着いていいかわからないせいで二人して立ったまま呑む、ミルクなし・砂糖多めの珈琲は虚構めいて甘い。互いの手許から白い湯気がのぼり、麦畑にかかる朝靄のようになって、視界までが追想のようにけぶってゆく。その、白い靄のむこうに、蜂蜜色の瞳を瞬かせる彼がいる。

みっつの角砂糖はなぜだか苦いようで、堪える仕種で、彼は珈琲を口に運び続けていた。

そう広くもない室の、ストーブのなかでコークスは真っ赤に燃え上がり、彼の頬は熱気に仄赤く染まりつつあった。おちかかる髪は蒸気のせいで濡れたようにつやめいている。そのさまと、融けきらない砂糖をざりざりと噛む音が、何だか不釣り合いで、壁時計の秒針の音は砕けるように消えていった。

一方、広く取られた観察用の窓は、外との温度差のせいで今はすっかり曇ってしまっている。白鳥どころか湖さえほんとうにあるのだか疑わしいような有様であったけれども、硝子窓は光をよく透して、窓の向こうに何やら広がっているらしい、美しげな世界の印象だけを映していた。

彼も私も、曇った硝子をこすって、外界を暴こうとはしないでいる。
それはおそらく、湖面に浮かぶ真珠のような鳥たちには、哀しみとかさみしさとかいうものが、似合いすぎるせいだったろう。あるいはただ、想い出が増えすぎるのが怖かったのか。

* * *

見えない白鳥の甲高い啼き声が、近づいてくる汽笛に交じり、何かの号砲のように遠く響く。
霧散していたはずの秒針の音が再び形容を取り戻し――気付いてしまえば五月蠅いほどだ。

彼はいつの間にか空になっていたカップを置き、「じゃあ」とか、そんなことだけ言い残して、最初に腰掛けていた長椅子のところの、小さな旅行鞄を取り上げる。「また」なんて嘘は吐いてくれない稚さがかわいくて、せめて微笑をうかべながら、彼が硝子戸を引くのを見る。

見送って、見送って、このちいさな交点を私は莫迦みたいにけんめいに見つめる。いつだって。すると彼は、一瞬だけちらと振り返った。

そうだ、あの頃、仕事場の窓越しに見送った子どもは滅多にこちらを振り向かなかったが、たまに、駆け去ってゆく足をふと止めて、私のほうを振り仰いだこともあった。透きとおった板硝子の向こう側で、あの子の金色の髪が、陽光を受けて、まるで光の筋そのものようにふわりとかがやくのはそんなときだ。

そうなるともう、私に微笑みかけてやる余裕はない。
刹那の交錯を取りこぼさないことに、私はいつだって必死だった。

結局のところ、現のうちにあったといえばそのくらいで、私と彼のあいだに関係らしい関係などは何もなかった。 いつもよりひとつ多い角砂糖――それきりの想い出に、あの子はどんな名前を付けて仕舞っておくのだか――夢見るように想うのも、だからそれだけだ。

ほんのひととき、視線が交わったからといって何になるだろう? 

天の運行を見届けるような諦めと眩しさを、例えば甘い珈琲で誤魔化しながら、私は、彼の背中が扉の向こうに消えてゆくのをただ見届ける。何度でも。

* * *

カップの底に残っていた珈琲をぐいと呑み干し、私は、懐中時計の銀の蓋を、今度こそぱちんと跳ね上げた。じきに、私の汽車も来るだろう。彼が往くのとは別の朝へ、私だって去ってゆくのだ。


(2015.02.14)