Lege, Lege, relege, ora, labora et invenies

Hotel Eden

( or Double Star )






Fは室で人を待っていた。

窓辺に置かれた布張りの椅子に腰かけ、ローテーブルに置かれた灰皿に煙草替わりのキャンディ袋を入れ、ひとつずつ取り出しては口に運んでいる。もう何個目のミントキャンディになるだろうか。Fの口の中で転がすには少し大きすぎるそれを消費し続けるうち、約束の時間がやってきたのかどうかすでによくわからなくなっていた。

なにせ、この室には時計がない。ベッドサイドには最新式の電話機まであったというのに、室じゅうさがしても砂時計ひとつ見当たらなかった。せわしない時の流れを思い出させる無粋なものを置かず、客に時間を忘れさせるのがこのホテルの流儀らしい。なんとか陽のぐあいで時間をはかろうにも、南の街はいつでも同じように明るく、昼下がりなのか夕方なのか、よそ者のFにはおよそ判断がつかなかった。

待ち人は、自動車で現れる筈だ。表通りに面したこの室の窓辺からは、あの人を乗せているかもしれないタクシーが近づいてくるのがよく見える。開いた窓からはエンジンがうなる音まではっきりと聞こえるが、停まった車からあの人が降り立つのを見ることはできなかった。下の階の庇が邪魔で、ホテルのすぐ前だけは見えないのだ。何台か通りかかった車はすべて、わずかのあいだだけ庇に隠れてから再び現れ、通り過ぎて行った。

だいぶ擦り減ったキャンディが口の中で砕けたころ、また一台、黒塗りの高級そうな車がホテルの前を通りかかる。過ぎていくのが見えないから、おそらく停まったのだろう。こんどこそあの人かもしれないと、Fは椅子から立ち上がって窓から身を乗り出したが、やはり庇が邪魔で人影を見つけることはできなかった。

しばらくして、車は庇の向こう側から姿を現し、去って行く。エンジン音が遠ざかり、潮風が頬を撫でた。乗り出した目線からは、白壁の家家の合間に海の切れ端が見えた。南国らしい、いかにも透き通った青い海だ。もちろん空も同じくらい青い。雲は白いし、街路には棕櫚の木が植わって、道をゆくひとびとは皆ゆったりした涼しげな服を纏って穏やかそうにしている。この街に悲しいことなんて何一つないと言いたげな、絵葉書のように美しく現実感のない街だった。

Fは窓の外から目を逸らし、ノックされない扉と鳴らない電話機に失望しながら、もう一度身体中のポケットをさぐる。懐中時計がどこかしらに収まっているはずだった。銀の鎖でベルトにつないでおいたから、失くす筈がなかったのに、この室に入った途端、急に見当たらなくなった。

――おれは時計をいつ失くしたんだろう?

いつまではあっただろうか。最後に見たのはいつだ?布張りの椅子に座りなおして、ミントキャンディを口に放り込みながら、Fは苛々と記憶をさぐる。

たしか、ホテルにチェックインしたときはあったはず。吹き抜けのロビーでチェス盤模様の床を歩きながら、ズボンのポケットから懐中時計を取り出して時刻を確かめた覚えがあった。文字盤の白さは思い出せる、しかし、二本の針がどんな数字をさしていたのか、それは思い出せない。あれはいったい何時だった?――それでもとにかく、時計を見た記憶はある。

確信が持てた。ロビーで懐中時計の蓋を閉め、元通りズボンのポケットにおさめて、フロント係に話しかけ、それきりだ。案内係に荷物を預け、昇降機に乗りこんでからは一度も見ていない。室に入ってから、Fは一度も時間を確かめないまま人を待っていることになる。

どうにも納得がいかない。ロビーから室までの短い間に落としてしまったのだろうか。落とせば案内係が気付くだろうに。あるいは、廊下はずっと絨毯が敷かれていたから、音もなく落ちてしまったのか。だとすれば、鎖は切れてしまったということになる。もう何年も使い続けているあの銀の鎖!

Fはまだ大きなキャンディを奥歯で噛み砕くと、椅子から立ち上がり、室のなかを見渡した。

日に焼けた白い壁。カメレオンの絵がかかっている。絵の下にベッドがあり、少しだけ午睡したせいでリネン類は乱れていた。その上に、へたくそなアイロンがあてられた白いシャツが、無造作なふりをして注意深く配置される。ベッドサイドテーブルの上には前客が残したアブサンの空壜が横倒しになっている。

緑の液体がこぼれたテーブルにはほかに、Fの吸わない煙草の灰、水銀体温計、何かが走り書きされた名刺大の紙片がある。

ただし、紙片の文字は緑に滲んで読めない。横になった拍子にFがアブサンの壜を倒したせいだが、その読めない文字が住所だったことをFは知っている。それが待ち人の手蹟であることも。しかし、その内容までは記憶していなかった。

せめて住所があれば。電話番号を調べて連絡を付けることも、自ら赴くこともできたものを。

いまさら悔やんだ。壜を倒したときは気にも留めてなかったくせに、時計が見当たらないとなると、急に不安でいっぱいになってくる。時間がわからないのだ。約束の時間は過ぎたのか。まだなのか?あの人は来るのか来ないのか。鎖は切れてしまったのだろうか。ミントの爽やかな香味が寒々しく思えて、口腔に残った欠片をいそいで飲み下した。

室内は、置時計のひとつもないか探し回ってくまなく確かめたから、懐中時計があるとすれば、ロビーから室に至るまでのどこかだろう。運が良ければ誰かに拾われて、ホテルのほうで預かってくれているかもしれない。

Fは、懐中時計を探しに、ホテルの中を歩き出した。

まず室から出るために、扉を開けようとすると、そこには鍵がかかっていた。自分で錠を下ろした記憶がないから、オートロックなのだろうか。案内係に聞いた記憶がなく、首を傾げたが、中からはつまみで開閉できるのだから、何の不都合もない。それ以上気に留めず開錠して出て行った。

南の街にふさわしく陽光で明るかった室内と違い、廊下は薄暗い。窓からあまり陽が差さず、照明も控えめだった。床は木製で、中央には紺瑠璃のペルシア絨毯が敷かれている。この絨毯のせいで、鎖が切れて時計が落ちたことに気付かなかったのだろうか。しかし、見渡してみても、絨毯の上には塵ひとつない。

嘆息して目線をあげると、壁に額に入った楽譜が掛けられているのが見えた。細かな音符が多く散った曲だ。どうも一頁目ではないらしく、題名も署名もない。譜は読めないので、その旋律は知りようがなかった。

来たときと同じ道をゆくことにしてそのまま進むと、突き当りに階段がある。紺瑠璃の絨毯はそのまま続き、どういう仕組みなのか、なだらかなカーブに沿って皺ひとつなく敷かれていた。下ってゆくと、踊り場に小さな円卓がある。来たときはよく見なかったが、異国風磁器の花瓶が置かれていることに気付いた。萎れた白薔薇が一輪だけ生けられており、円卓の脚元には変色した花弁が散らばっていた。廊下は掃除がゆきとどいていたというのに、奇妙なことだ。

階段を下りるとすぐにロビーだった。お仕着せを来た若い男が話しかけてきた。チェックインしたときにも、この男に声をかけられた覚えがある。気安く返事をすると封筒を渡された。

――これはなんだ。誰に預かった?

訊ねようとしたが、案内係の男はFのすぐ背後にいた初老の夫婦に何事か話しかけられ、そちらに気をとられて返事もしなかった。しかたがない。とりあえず封筒をポケットに入れ、チェス盤模様大理石の床を歩く。

人気を避けて壁際に寄ると、ちょうど、玄関口の回転扉がよく見えた。恋人同士や親子連れが、順番に、ひとりずつ、くるくると回転し続ける扉を潜り抜けては、美しい南の空の下に出て行く。扉を抜ければすぐに腕を組み、肩を抱き、母親が子供の手を引いて、硝子の向こうにある、絵葉書のように美しい街に繰り出してゆく。

青い空は、あいかわらず時間を教えてくれない。思いついて外に目を凝らしてみれば、黒塗りの自動車が停まるのが見えた。黒い外套を着た男が降り立つ。背の高さや髪の色はあの人によく似ていた。だからつい期待して、目を輝かせた。手を振りかけた。

しかし、男が近づいてくると、それはまったくの別人だった。なぜ見紛うたのか、自分を嗤いたくなるほど、待ち人には似ても似つかぬ人間であった。知らない男は、まじりっけなしの幸福を湛えた平和そうな顔をして、締まりのない足取りでふらふらとホテルに歩み寄ってくる。

ちがう。あの人はこんなふうじゃない、ちがう。ぜんぜんちがう。苛立ちに叫びだしそうだった。 ホテルの従業員に、懐中時計が落ちていなかったか尋ねなければならない。それから、自分でももう一度探そう。室からここまで、結局、時計も鎖も見当たらなかったのだから。あの銀の懐中時計は決して甘い思い出の品などではなかったが、Fと待ち人を繋ぐ無二の鎖と言ってよかった。

まだ先刻の夫婦と話し込んでいる案内係を見やり、Fはふと、さきほど渡された封筒のことを思い出した。
ポケットから取り出して、苛立ちのまま乱暴に破いた。

中から、真っ白いカードが一枚だけ現れる。それは名刺大の小さなカードだった。黒い洋墨でくっきりと記された文字は、住所が書かれていた紙片と同じ筆跡である。ただし、あの紙片のように滲んではいない! 待ち人の、彼の書く滑らかな筆記体に心が躍った。Fは苛立ちも、苛立ちに紛らせた恐怖も忘れて、流れるような文字を指でなぞる。


   You passed by. 


短い文面だったが、内容が頭に入ってくるまでには、しばらくかかった。理解した瞬間、ホテルの喧騒、扉の向こうの美しい景色、その他あらゆるものごとが、Fから急速に遠のいて行った。脳裏に、切れた鎖の空想だけがちらちらと明滅する。 真っ白になった頭でカードをひっくり返すが、謎めいて残酷な一文以外には何一つ書かれていなかった。Fの名前すら。

縋るような気持ちで、ついさっき破いた封筒を見直すと、裏に署名があることに気付いた。これもまた、Fが待っているあの人の手蹟である。しかし、署名は、署名だけが、滲んで読めなかった。よく見ると封筒は緑の液体に濡れてひどく汚れている。ああ、室でアブサンの壜を倒したせいだ。Fは後悔で呆然としながら、なんとか読めそうな字を探した。

署名の頭文字が、おそらくCであろうことだけが解り、Fは封筒を取り落すことすらできない。あの人のサインであることは明らかだった。しかし、Cであったのだ。

それでもなお、諦め悪くFが封筒の隅々まで確かめると、もう一つ、文字があることがわかった。
ただしそれは印刷された刻印である。この封筒がホテルの備付品であることを示すに過ぎない。


   Hotel Double Star


二重星ホテル! 自分のいた場所がそんな名前だったことを、Fは、この瞬間まで忘却していた。最初は、ちゃんと知っていたはずだった。ホテルに予約を入れ、回転扉をくぐったその時までは、確かに知っていた。なのに、ロビーに降り立ち、室に入ったとたん、思い出そうともしなかった。

きっともう、鎖は切れたままだろう。もしも時計が見つかっても、もう一度繋ぐことはできまい。
確信を抱いて、Fは瞑目する。待ち人は来ない。自分は待てなかったのだ。あの人のほうは、あれほど待ったのに!

―― そもそも、おれが待てるはずもなかったんだ。
Fは自嘲し、独り、ホテルを去って行った。



(2011.11.03)