夜の古書店街。その一番奥の通りに在る、たいそうマニアックな店に彼はいた。
マニアックと云っても、この場合はべつにやらしい意味じゃない。よっぽどのオタクでないと読まないような小難しい錬金術書ばかり仕入れるので有名な、知る人ぞ知る錬金術師御用達店、という意味だ。
彼はその店のなかでもさらに一番奥の、窒素化合物がどうとかフッ素の分離法がどうとかいう、錬金術師のあいだでもいまいち人気のないジャンルの本をあさっていた。
黒い外套の下が私服なのを確認するまでもなくプライベートだろこれ、と同じく完全に趣味で本をあさりにきたおれは思う。
「よう」
なんと声をかけていいか解らず一言、十五歳当時の生意気を再現したつもりの声をひろい背中に投げてみると、彼は立ち読みしていた本をいきなりパタンと閉じて振り返った。
「鋼の?」
「おう」
眼をまるくした男に懐かしい銘を呼び掛けられ、おれはにやりと笑ってひらひらと右の手を振ってみる。彼はその生身の手に目をやって、まぶしそうに細めた。
おれはというと、彼の黒い両眼にひかりがあるのを思わず確かめるように覗き込んでしまって、なんとなく恥ずかしくなって目を逸らす。
「ひさしぶりだな。一人かい?」
「セントラルへは、ウィンリイと。あいつは、工具とか見たいっつって別行動だよ。あんたは?」
「見ての通り非番だ。――君、久々に会ったんだから、お茶くらいつきあってくれるだろう?」
――ふん、やなこった。
と、むかしみたいに云ってもいいんだけど。
考えつつおれは、だいぶ見上げる角度が浅くなった彼の、明らかに面白がってるさまを窺う。向こうは向こうで、『大人になった鋼の』のようすを観察して興味深そうにしてるので、ここはひとつ、初めての試みとして素直にうなずいてみることにした。おれだってオトナになったんだぜ! ってことで。
「いいぜ。暇だし、つきあってやるよ」
でもあまり嬉しげに快諾するのはやっぱり癪だったので、こういう言い回しになる。当然。これじゃやっぱり子どもの頃と大して変わんない感じだったかな、とちらっと後悔しつつ反応をみると、彼は案の定、声を殺して笑っている。
くそ。ついむかしみたいに睨みつけたけど、ひかりを取り戻した両眼に対峙すると、おれは、思わず俯いてしまう。彼はあの頃と、同じだけど、なにかが違う。
根本的にやさしいひとだとは知っていた。だけど、こんなふうに、やさしい顔で見下ろされたことなんかなかったはず。
――このかおは、ずるい。
なぜかそんな感想が浮かんで、意味も無く頬が熱くなった。
折角夜に会ったんだし、ということで結局おれたちは喫茶店ではなく、適当に入った酒場のカウンターに並んで腰かけた。店員から酒壜とグラスを受け取るなり、おれは勝手に二人分注ぎ、乾杯なんかせず口をつける。
その後しばらく、ひととおりの近況を報告しあったのち、ロイ・マスタング――今の地位はさっき聞いたけど忘れた――はふと思いついたように云った。
「君は、雰囲気がまるくなったな」
「そうかなあ」
「ああ。しあわせなんだろう?」
しあわせ、だなんて大佐からはあまり聞いた覚えのない語彙だけど、彼の口調は言葉尻ほど湿っぽくはなくて、ごく一般的な物理法則を一応確認したみたいな感じだった。
おれは、その問いというか確認というかに、上手く答えられず、逡巡して彼の顔を見上げた。柄にもなく口ごもるおれを照れてるとでも思ってるのか、彼は橙色の控えめな明かりの下、面白そうに口の端を上げる。
あの頃、未決裁書類の山を脇に追しやっていつまでもおれをからかってはホークアイ中尉に怒られてた時と同じ系統の笑みだ。
でも、やはり年月というやつなのか、変わらない中にも見慣れない色はあって、場所のせいもあってか、なんだか落ち着かない心地にさせられる。当時は見せたことのない、親愛のようなあまい色が、彼の黒い眼の中に湛えられていると思うのは、たぶん光の加減とかじゃないと思う。
「からかってるわけじゃないぞ、むしろ君が羨ましいくらいだ」
彼はおれの右肩のあたりに視線をやりながら続ける。
「弟とともに宿願を果たし、可愛い幼馴染を奥さんにして。美人でしっかり者だそうだね。まさに順風満帆じゃないか。じきに子どももできるだろう。君はきっといい父親になるよ。アルフォンスのいい兄貴だったものな、いい親父にだってなれるさ」
朗らかに紡がれる言葉は、馬鹿にされてるのか遊んでいるのか本気なのかわからない。
つらつらと並べ立てられた内容自体は、別に怒り出さねばならないようなものじゃなかったけれど、素直に「はいそのとおり」と云ってやる気にもなれなかった。それがなぜかは分からないながら、とりあえず何か嫌味を返しておくのはもう長年の癖みたいなものだ。
「なんだよ急に。いい歳して独身の僻み?」
「相変わらず失敬だな君は」
むかしどおりに生意気に云ってやると、これまたむかしどおりの呆れた顔が返ってきたので、思わずほっと息をついた。この調子ならちゃんと渡り合える。
相変わらず童顔の癖に、妙に雰囲気を深くした現在の彼とは、軽口でもないととても視線を交していられない気がした。なんというか心臓に悪い。まあそれはむかしからだけど。いたたまれないというか。
だからおれは、久しぶりの再会であろうがなんだろうが、むかしと同じ調子の言い合いが続くのを密かに期待していた。
なのに、直後、薄情にも彼はあっさりとおれの期待を裏切った。
ふっと目許を和らげて、むかしは隠していた甘い色を、また宿らせて彼は云う。
「ただ、君の平穏な日常を確認して喜びたいのさ。素直に幸せそうにしてなさい」
そんなふうに、めずらしく真面目に云われてしまうと、おれだって子どもじゃないんだ、軽口で済ませてしまう訳にもいかない。べつに、照れくさいってほどのことじゃなし、何をごまかそうとしてるのか、自分でもわからないまま、おれは真摯に答えようとして口ごもった。
「……そりゃ、まあ、幸せにやってるよ。ってことになるのかな」
もごもご云った末、曖昧に眼を逸らしつつ語尾を濁してそう答えることしかできなかった自分に、違和感あるいは失望感を抱いて、おれは当惑した。
だって、ずっと、長いこと苦しい思いをして、欲しかったのはいまの生活のはずで、だったらそれは「しあわせ」以外でありえないのに。おれはなにをもごもご言ってるんだか。
ウィンリイと自分はきっと、ごく普通のいい家族になれるとおれだって思ってる。そのうち子どもができればおれはぜったい家族のために尽くすだろう。そんなの、父母の俤をよぎらせるまでもなく自明のことだ。
それこそが幸福。暮らしていく、ということ。
要するに、【しあわせな家庭を築く】ってやつで。すばらしいじゃねえか。文句あるか。これを「幸福」と呼ばない理由を思いつかないね!
それなのに、だけど――。
と、逆接で接ぎたくなるのは平和ボケ? それともおれがひねくれてるせいだろうか。
このひとに問われて答えるのが、こんな、柄にもない一般常識でいいのか。
消去法みたいな証明で、ウィンリイに失礼じゃねえのか。
……おれのなかの子どもの部分が、そう訴えて怒っている。
カラン、と彼の手にあるグラスの、氷がぶつかる音がひびく。
急かすでもなく発言を待たれている気配を感じて、おれは手許のグラスの水滴を指先でいじった。意味なくくるくるとかきまぜ、甘い酒をひとくち飲む。
「なんかあまいやつ」というおれの適当なオーダーで彼が見繕った酒は、すごく好みの味だったので、これでも機嫌は悪くなかった。彼も同じのを呑んでるから、甘口を子ども扱いされる心配もない。いつだって美味しいものは心をなごませる。
そういえば、むかし東方司令部で呑んだコーヒーは最低だったけど、稀に、だれかの私物のを出してくれた時があって、それは、いつもが酷いぶん美味しかった。
あれってあんたの?って、いま訊いたらゆったり頷かれそうな、現在の彼はそんなカオで、おれが言葉を探すのを待っている。
甘いお酒のせいだろうか、自分が嘘を吐きたくない一心で、無意味なほど真面目に言葉を探しているのを、おかしいとは思えなかった。
「しあわせ、っていうとよく分かんねえ。でも、否定する理由は見当たらねえ、かな」
見つかったのはそんな曖昧な答えだったけれども、彼にはそれで十分だったようだ。
黒い眼の中で揺れているオレンジの光をゆるく和ませたのを、おれは見届けきれずに僅か視線を逸らし、わけもなく彼の貌の輪郭をたどった。相変わらず。妙に胸の騒ぐ顔だ。よく見ると案外地味な造作のくせに、雰囲気があるというのか、出逢ったころから、眼というより心臓に灼き付いているような感じがする。
「そう聞いて安心したよ」
ああそう。この声もそうだった。胸にそのまま沁みこむみたいに思うことがある。
ざわざわと、無意味に浮き足立っているおれをなだめるように、彼は急にむかしにもどって、『何を考えてるのかわからない上官』の口調で続けた。
「そこでだね。君の幸福に免じて、一つ頼みがあるんだが」
「珍しい話題だと思ったら、そういう魂胆かよ!」
おれは相変わらずなんとなくそわそわしていたけれど、そこは経験のたまもので、ほぼ無意識で言い返した。あの頃、軍の仕事をふられたときとまるきり同じ感じになっている。
「そんな大したことじゃないさ。ただちょっと無駄話を聞いてくれればいい」
「聞かせて何をさせようっての?」
こういう場合、ぜったいろくなことじゃなかったけど。
たぶん今日の彼は、無茶な頼みはしないだろう。と根拠なく思う。
錬金術を使えなくなったからか、彼は、おれのことをもう戦闘員的な扱いではたぶん見てない。遠ざけられたっていう風でもないのが不思議だけれど。
「何をしろということはないな。君はただ『へえそうだったのか、それは知らなかったなあ』とかいう感想を述べてくれれば十分だから安心したまえ」
「『んなこととっくに知ってるよ』っていう感想は?」
「むしろそちらのほうが望ましいが、どっちでもいいさ。事実に即して適当にやってくれ」
「わけわかんねえな」
断る気なんかどこにもなかったけど、いちおう、胡散臭げに言ってみる。
「……ま、いいか」
でも貸しだからな!と、やっぱりいちおう云い添えると同時、ほとんど癖で『いけ好かないクソ大佐』を睨み据えると、そこにはからかいの色を消した雰囲気のある大人がひとり微笑んでいて、おれはまた眼を合わせられずに視線をうろうろと彷徨わせた。
いまのこの、むかしみたいなやりとりは、たぶん彼がわざとそうさせたに違いない。
「ありがとう。――先に謝っておくが、もし困らせたらすまない。だが、君の心に多少波風を立てたって、穏やかに暮らしてるんだ、そう影響はないだろう?」
そう告げる彼の声は、どこかほんの少し、懇願めいたひびきを帯びていて、おれは信じられなくて、でも確かにこのひとらしい気もして、柄にもなく戸惑ってしまう。
「何なんだよ。手っ取り早く、簡潔に言いやがれ」
ふわふわと惑っている自分をごまかすための剣呑な促しに、あの頃よりずっとあまく苦笑した彼の表情は、やわらかくてあたたかなものを隠さずにいて、おれは急に覚悟を迫られた。
これは、もしかして、思ったより深いところの話かもしれないぞ。
と、思った瞬間に彼はあっさり口を開く。
……別に聞きたくなくはないけど、もうちょっともったいぶってくれても良かった、とおれは初めて思った。
「私はね、エドワード。君が好きだ。」
急に何を言い出すんだこいつ――とは思わなかった。
かわりにふと浮かんだのはなぜか、「ちゃんと目をみて話を聞くのよ」という母さんの声で、だからおれは何とか眼を逸らさずに、彼の眼差しを受け止めた。
ほかでもないおれのために簡潔で、とても淡々とした告白に対する、それは義務のような気がしたからだ。
彼は、ささやかな内緒話のような口調のなかに、ところどころ、何か息の詰まるものを隠しきれずにのぞかせていた。
「愛してるよ。だから幸せに生きていてくれ」
それだけ言い終えると、彼は小さく息を吐き、俺の眼のなかを視線でたどった。
今なら存分に見つめられる、とでも言いたげに、彼の黒い眼のなかに金色がたっぷりと映り込むのを、おれは見た。やわらいだ眼差しを受け止めているのはとても落ち着かなくて、一刻も早く眼を閉じてしまいたいくらいだったけれども、でもそうするわけにはいかなかった。
おれがざわつく心臓を押さえるように、右手でシャツの胸元を握りしめるのを、彼は見遣り、そっと瞬きして視線からおれを解放した。
「話は以上だ。どうだ、知っていたか?」
彼はカウンターに向き直ると自分のグラスを取り上げて、ごくりと咽喉を潤す。彼がこちらを見ないのは気を遣われてるんだろう。右手でシャツを握りしめたまま、おれも無意識にグラスに左手を伸ばしていた。無意識の動作に薬指の指環がグラスにぶつかり、カチンと硬い音をひびかせて、右手の下で鼓動が大きく脈打った。
彼の動揺を探りたくなくて、おれは一息に甘い酒を飲み干す。そのことに特に意味があったとは思えなかったが、とりあえず、唇から言葉を押し出すことはできた。
「………知らなかった」
「そうか。それはよかった。一応隠していたからな」
こいつは絶対、おれがどう返しても「それはよかった」と云うんだろう。かっこつけめ。
そんなどうでもいいことだけ確信して、おれは熱い息を吐く。
彼はひとり静かにグラスを傾け、カラン、とまた氷の音がした。
おれは右手を胸元からそっとはなし、グラスに添えられた自分の左手に重ねる。
薬指に嵌まったごくシンプルな指環のラインを右の人差し指でたどり、なぜか胸が軋むのをごまかすように、掌を覆い被せてぎゅっと握る。
熱く火照る手のなかで、白金の指環だけが冷たくて、おれはなんだか途方に暮れたような気持ちだった。右手が熱かったり冷たかったりするのにも、最近はすっかり慣れたのに、今なぜか、指環の感触に慣れられない。
おれはもう一度、左手にかぶせた右の手を眺めやる。取り戻してすぐは、さんざん撫でまわしたり見つめたりした、何の変哲もない手だ。
ただの膚がそこにはある。うっすらと透ける血管。血肉のいろ。
――彼には、鋼の右手のほうがまだなじみ深いだろう。
彼がさりげなく、でも熱い眼で見つめているのを察すると、そんなことについ思いあたってしまって、指はますます熱くなる。いや、それとも、指環だろうか。右手の下、左手の指環を見てるんだろうか。
……そうじゃないといいのに。
「なあ、大佐」
考えるよりさきに口を開いたせいで、つい古い階級がこぼれたけど、彼は懐かしそうに微笑んだだけで訂正はしなかった。
「おれも、一個頼みがあるんだけど」
「……何だね?」
彼が務めてさりげなくなるように、声と口調に気を使っているのがなんとなくわかって、胸が熱くなる。自分が、まともな自覚もないまま馬鹿なことを云いだそうとしている自覚はあった。彼にとっては失礼なことかもしれない、とも思う。
でも、このおれの、とりたてて美しくもない、ただの右手のことを思うと、どうしても云わずにはいられなかった。
おれは、両手をグラスからはなして、少し大きさの違う左右を見つめる。一方にはやっぱりごく一般的な結婚指輪がはまっていて、もう一方はまだ少し肉付きが悪かった。
彼がじっとおれの言葉を待っているのを、おれは卑怯にも気配だけで確かめ、顔を上げないまま云った。
「おれの右手、触ってくれる?」
告げた途端、彼が息を呑むのがわかった。
やっぱり馬鹿なことを言ったなと思う。酷いことでもあったかもな、とも。
云ってしまってからおのれの途方もない馬鹿さに負けそうになったおれは、「やっぱりいいやいまのなし、」とか往生際の悪いことを言いかけ、でもけっきょくは口を噤んだ。
――大きな手が、遠慮がちに伸ばされてくる。
同時に、拒絶なんかできるわけのないあまいいろの眼差しがおれの意志をさぐっていて、
おれはもう見惚れてるんだか困ってるんだか分からない混乱した自分を差し出すしかなかった。
やがて、彼の両手がおれのなんでもない右手を押し包み、こんどはおれが息を呑む。
膚と膚。血と肉と骨とを持つあたりまえの手。それらが触れ合っていることに、二人して声も立てられない。
おれも、彼も、互いにただ触感だけ与えて黙っている。
なにも言えなかった。だってそれどころじゃない。
彼の手は、おれのより幾分大きい。
これでもきっと、むかしより差は縮まっているんだろう。
そして、彼の手は骨ばっていて、ごつごつしていて、爪はみじかい。
……そういうことだけ捉えるのでもう、脳はいっぱいいっぱいみたいだった。
あとは、そう、指先がまるくて、膚はすこしざらざらしてる。不自然な凹凸はおそらく、たくさんの火傷と創傷の名残だろう。
――泣きたくなるような切実さで、いっぱいになる手だった。
右手を撫でる彼の触れかたは終始やさしかった。
時折きつく握りしめそうになるたび、苦笑とともに、そっと解いてしまう。いっそもどかしいくらい、彼は羽根のようにそっと、ゆっくりと撫でる。指の一本一本を指でたどり、視線でも確かめるような仕種が繰り返される。
――すきだ。あいしてる。
そう云った彼の声が、体温と一緒にじんわりとしみわたる。胸の中を、幾重にも反響する。
身体じゅう、とりわけ右の手指と義肢のままの左脚とに、じんじんと沁みていく簡素な言葉は、まるで生まれて初めて聞くような響きを持っていた。
おれだって、彼が告げたのと同じ言葉が意味するものを、築いてきて、だから結婚したはずだった。なのに、ひどいことにまるでそんな気がしない。
『好き』も、『愛』も、こんなんじゃなかった。あれはもっと、みんなが知ってる平生のじぶんに近いところにあった。こんなふうに、だれも知らないはずの感傷みたいなところにまで、伝い落ちてくるような言葉じゃなかった。
最後に彼は、薬指に触れるか触れないかの口付けを落として、おれの右手を解放した。
口付けに身じろぎしたおれに、彼は謝りかけてやめた。かわりに、左手を取って、同じように口づける。
薬指にはめたプラチナの指環に、彼の唇が触れるのを、瞬きもできずに見つめた。
知らないうちにきつく握りしめていた左手を、キスでほどかれてしまう。
なにするんだよ、って今度こそ怒鳴ってやらなきゃいけない、そのつもりでなんとか口を開いたのに、そんな言葉はどうやっても零れ落ちてくれなかった。
唇からはただ熱い吐息と、押し殺した嗚咽だけが漏れ、彼の眼がゆっくりと眇められる。
息を止めて去るしかもうないと分かってるのに、夜の色をした眼がそれを許してくれない。
今度は濡れた睫に口付けられて、自分の眼からぽろぽろ涙がこぼれているのを知った。
あの頃泣かなかったぶんなのか、涙はなかなかとまらなくて、ついさっき愛の告白をやらかした男が、おれを胸に抱き寄せてあやしている。
いや、だめだろうこれ。なんでこうなってるんだよ。
彼の口づけを受けた両の手は、いつのまにか彼の背中にいて、上着越しの背筋や、筋肉の厚みや、その体温に縋っていた。
左手が、冷たいプラチナの感触とそのうえに落ちたキスとの間で混乱して震えている一方で、どうにも素直すぎる幼い右手は、どんな『幸福』よりもただ彼の背に縋りたがっている。
――鋼の右手にも、キスをもらっておけば良かったな。
そんな詮無い後悔ばかりが浮かんで、明日のことなんて、もうなにも考えられなかった。
[ The Hermetic Study of Happiness ]
(2013.03.23)