はがねのれんきんじゅつし ろい×えどわーど






Lege, Lege, relege, ora, labora et invenies

Hotel Eden







あの子はいちどだけ、覚えのないことで私を責めたことがある。

数か月ぶりの逢瀬の夜だった。疲れ切って眠ってしまったエドワードの汗を拭いて、髪を梳いてやりながら、私はいつまでも眠れないでいた。この子には笑われそうだが、眠るのがもったいなくてたまらなかったのだ。安らかそうな目許や、まだ幼げな頬のあたりを、飽きもせず見つめては、起こさないようにそっと撫でた。

この子が私の腕の中で、眠ってくれることに心の底から安堵せずにいられない。どこでもねむれると公言してはばからない少年あいてに何を、と自分でも思うことがあるけれども、なつかない野良猫みたいに全身をぴりぴりと緊張させていた印象が鮮烈すぎて、同じ寝台で眠るようになってからも、エドワードが私をじぶんのいるべきところだと信じているなんて自惚れきれずにいた。

そもそも、次に会えるのが何か月後――あるいは何年後になるのか、私にはいつだって見当もつかない。“きまぐれに”と評するのは、彼のまごころを傷つけるだろうか、ふらりと訪ねてくるのを、私はいつも迎える役だ。それについて責める気もないし、そんな権利もないが、ただ、考えはする。

――ただでさえ頻繁とはいいがたい訪れがだんだんと間遠になってゆき、彼がやがて私を忘れる未来。

本人に感づかれたことはないはずだが、この子の幼さを見るにつけ、考えるともなく考えるのをやめられない。

その晩もそうだった。起きているときとの落差の激しい穏やかな寝顔があまりにも稚くて、いまエドワードが背負っている暗い色彩が、本来いかに不釣り合いなものか、もう飽きるほど思ったはずのことをまたかみしめる。
カーテンの隙間から漏れる月明かりに照らされて、鈍く光る鋼の腕と、シャボンの匂いのする髪の金色の流れ。その痛々しいほどの彩に、私はまだたよりない背中を強く抱きしめた。

とたん、腕の中の存在が身じろぎし、温度の違う両手を突っ張って抱擁を逃れるしぐさを見せたので、私は抗わずに、抱いた腕をゆるめてやった。そっと顔を覗きこむと、金の睫に縁どられたまぶたはゆるく持ち上がって、ねむたげな眼が私を見上げている。


* * *


「すまない、起こしてしまったか」

眠気をすっかり飛ばしてしまわないように、息を混ぜてちいさく声をかけた私にかまわず、あの子は半分夢の世界にいるような顔のまま、奇妙にはっきりした口調で言った。

「来なかっただろ、あんた。待ってたのに」

ねむたそうにとろけた金眼でにらんでくる子を、さいしょ、私はただほほえましく感じただけだった。まったく何の心当たりもないことばだったので、あの子の夢の中での出来事であろうことはすぐにわかったからだ。

「ああ、それは悪いことをしたね。きゅうな仕事でも入ったのかな」

私と待ち合わせる夢を見たのかと思うとどうにもかわいくて、私は夢に調子を合わせて答えてみた。すると、あの子はますます機嫌を損ね、唸るような声でひくく言った。

「うそつけ。あんな変なカードよこして」
「カード?」

この子をこんなに怒らせるとは、夢の中の自分は、いったいどんなふうだったんだろう。
だんだんと興味をそそられてきた私が思わず鸚鵡返しに尋ねると、ご機嫌斜めの子どもは眉間にしわを寄せて黙り込んだ。もう何も話す気はないとばかりに口を閉ざし、とろんとしていた眼をつむってしまう。

そのまま眠り込むかと思ったが、それより前に、手が伸びてきた。色も温度もちがう両手が、私の襯衣をさわる。距離を探るようにぐずぐずして、やっと思い切ったように、ぎゅっと掴んで私の肩口に顔をうずめた。

あからさまに甘えるしぐさはとても珍しい。どこかただならぬものがあって、私はさきほどのように背をだいてやった。この子が見たのはどうやら悪夢の類らしいことは十分に察せられ、もう問いかける気はなくなっていたが、なにか言葉をさがしているようなもごもごした気配が吐息になって膚にあたった。

「おぼえてねえの?」
もう眠ってしまえばいいというつもりで背をなでてやっていたが、やがて、ため息のような声が耳に届き、私は背を抱く腕をすこしだけきつくする。
「あんた、こう書いてよこしたんだ」

襯衣ごしに肌に触れたその声は、ねむたげなくせに、どこか諦めきったような冷めた響きがあり、私をひやりとさせた。
曰く――


《 お 前 は 、 通 り 過 ぎ て し ま っ た よ 》


そうつぶやいたのを最後に、エドワードはもう口を開かなかった。ぐっすりと眠りこんだ相変わらず幼げで安らかな寝顔は、魘されるような様子もなく腕の中に納まっている。
話してしまって安心したのだろうか。そうだったらいいのだが。私が苦笑交じりに「おやすみ」と囁くと、寝息が深くなったような気がして、私はすこし安堵した。

年齢より幼く見える寝顔を眺めていると、さきほどの背筋が冷たくなるような感覚などなにかも幻のように思えた。どこかで、おそらくはかなり長いこと、私を待つ夢。待たされた挙句、あの子を責めた私の夢。ねむたげな顔でなじってみせた当人は、なにかも忘れたような顔をして安らかにしている。ほんとうにもう、これっきりの、ただの夢でいいのだろうか。

規則正しいリズムで膚にかかる寝息がかわいくて、いつかこれを失うことを、この子自身に予言されてしまった気がした。見破られたのかもしれない。まだ幼い彼が、おとなになってゆくうちに、私のことを忘れるだろう、この腕を要らないと言うだろう、そんな恐れを抱いていること。

そして、エドワード自身も恐れている。
国中を飛び回って幻の霊薬を探す、涯のみえない旅を。
あるいは、先の見えないこの関係を?


* * *


翌朝、エドワードはいつもと変わらない調子で目を覚まし、憎まれ口をたたきながら、朝のせわしい時間を機嫌よく過ごしていた。夢のことを訊こうとしたが、私が以前教えてやったとおりに、コーヒー挽きをゆっくりと回している小さな背中を見ると、どうしても何も言えなかった。

砂糖の数だとかミルクの量の好みまでの一連をすっかり覚えてしまった彼は、まるで科学実験でもやるような手つきで実に慎重にコーヒーを淹れてくれる。まじめくさった様子がおかしくて笑うと、まだ結っていない長い髪をなびかせて勢いよく振り向いて怒り出すから、ますます可笑しくてならなかった。

やがて汽車の時間が近づき、この部屋を出て旅の空に戻ろうというときにあっても、エドワードは普段通り、何一つ変わらない様子だった。左手に小さな旅行鞄を提げ、小さく手を振ると、振り返らずに駆けていく。後姿になる一瞬前、すこしだけさみしそうな横顔を見たと思うのは、私の願望なのかどうなのか。赤い外套と金色の髪は、脇目も振らずに遠ざかる。

あの子が去って行った扉を閉め、ひとりきりになった玄関口で、私は昨夜の冷たい響きを耳によみがえらせた。《お前は、通り過ぎてしまったよ》。エドワードが、ここを通り過ぎていくという意味だろうか。しかし、だとすればいつものことじゃないか。彼は何度も通り過ぎては戻ってきて、ひとときを共にして、すぐにまた旅立っていく。

次にあの子を迎えたとき、あるいは、その次に迎えたとき、あの子が見たという夢のことを訊ねても、おそらく答えてはくれないだろうという気がした。
「あんたのほうが夢をみたんじゃねえの?」
そう言って、あの子はけらけら笑うだろう。寝ぼけてばかな思い込みをしている大人を、大いに面白がるにちがいない。しかし、もしかしたら、笑いを収めるほんの最後の一瞬間、あの諦めきったような響きの片鱗を、金眼のなかの昏いかがやきにして見せないとも限らない。

それでも、いまはまだ訊ねるべきだと思えなかった。ただの奇妙な夢はいま、怖ろしげな予言に似ていた。訊けるとすれば、いつかほんとうに、あたりまえの待ち合わせをあたりまえにできる日がきたときだろう。

――なにもかもいつもどおりだ。
あたりまえの逢瀬と、あたりまえの別れがあっただけ。

私たちが密かに共有している恐怖がするりと解ける瞬間を、私はまだ、ほんとうには信じていない。夢の夢だとどこか諦めている。それをいつかあの子になじってほしい――不意に、そう思った。



(2011.10.09)