拝啓
手紙をありがとう。その中であなたは、宛名の字で僕を思い出せなかったことを申し訳ないと言ってたけど、差出人を見て思い出してくれただけでも僕にとってはまるで奇跡みたいなもんだよ。だからそんなことを気に病まないでほしい。
僕だってあなたのことを何もかも思い出せるわけじゃない。かつては日常としてしみこんでいたはずのことが、すっかり抜け落ちてしまっていて、ときおり悲しくなったりする。たとえば、好きな紅茶の銘柄とか、好きなおにぎりの具とか。あるときは切り干し大根の煮付けを作っていて、あなたは砂糖を入れるのと入れないのとどっちが好みだったろう?なんてふと思いついてしまって、考えても考えても思い出せなくて、その煮付けは焦がしてしまった。僕はそういうばかみたいなことをこの数年、もう何度もやらかしている。
きっと、あなたも同様であろうと愚考します。そうであってほしいという願望でもあるから、そうでないとしても、そう思い込ませといてください。昔からあなたは器用そうに見えて案外そういうところが妙に正直だったから、素直に「私は違ったな」とか言いそうだけどさ。まあ、それならそれで、いまの僕なら「あんたらしいな」と笑えるだろう。あのころの僕はそういうのが許せなかった、といま書きながら思い出したよ。当時は真剣に悩んでむかついてたのに、もうすっかり忘れてたんだから、ほんとうはそんなのたいした問題じゃなかったということなんだろう。もっと早くに気づけばよかった。
ええっと、そんなふうに、忘れたことはたくさんあるのだけれど、そのぶん分かったこともあったんだ。あなたのどんなとこが嫌だったかなんてことより、あなたの好きなおかずがなんだったか、ってほうが、今思えばよっぽど大事で覚えておきたい事柄だってこと。あなたと一緒なのが日常じゃなくなってしまっても、何年も会わずに便りさえなくても(僕はそう思い込んでいた)、やっぱりあなたは美味しいご飯を毎日食べていてほしい存在なんだ。
そういう気付きはやがて後悔にまで育った。今年の正月に久々に実家に帰ったのも、すこしあなたのいた過去に近づいておきたい気がしたからだったんだ。だからほんとうにびっくりしたよ。まるでタイムマシンに乗ったような気分だった。ドラえもんが変な声で「きみはしかたのないやつだな。過去に戻してやったからここからしっかりやり直せよ!」って言って去っていったみたいな。そういう奇妙なかんじだったよ。
しばらく呆然としたあとは、あなたの綺麗な字をなんどもたどったり、「あんたこそ不摂生してんじゃないの」って年賀状に向かってしゃべりかけたり、何度も何度も読み返したりした。読み返し15回目くらいのときに、やっと少し冷静になった。気がついてしまったんだ。あなたの年賀状は、もう何年も前に送られたものであって、今も僕のことを覚えていてくれるかは分からないってことに。ふつうに考えて、何年も前に疎遠になって、年賀状の返事も寄越さないようなやつ、もう忘れてるほうが自然だと思った。きゅうにうかれた気持ちがしぼんでしまった。現に、今年の正月、あなたから年賀状は来なかったのだし。
だから僕は、その年賀状にいまさら返事を出すかどうか散々迷った。あれからもう何年もたって、僕に年賀状を送ったことなんか、あなたは忘れているかもしれない。それどころか、僕という存在そのものを、思い出せないかもしれない。そんなふうに考えると、とても勇気が出なかった。それに、もし便りを出して返事が来なかったらあとは悲しむことしかできないけど、こちらが便りを出さなければ、あなたから返事が来ないのは自分が出さないからだ、と思い込んでいることができる。そんなふうに考えて、もうあなたには接触しないのが正解だといったんは結論しかけた。
だけど、やっぱり、返事を出すことにした。出さないではいられなかった。あなたが僕と同等の思い入れをもって反応してくれるかどうかなんて、大事なことじゃなかったと気付いたのを思い出したからだ。僕を覚えているかどうかより、元気でいるかどうかのほうがずっとずっとたいせつだ。あなたが年賀状に「体に気をつけて」とだけ書いてくれたのも、きっとそういうことだったんだろうということにも気づくことができたから、とてもうれしくて、勇気が出たよ。同等の思い入れをくれなくても、って思うのはほんとうなのに、僕とあなたの考えることが一緒だっていうのはやっぱりうれしいな。
返事を出すと決めて、年賀状も買ったのに、いざ白紙の年賀状を前にするとやっぱりなんだか恐ろしくなってしまったせいで、あんなへんな封筒になってしまったんだけどさ。ああいうしょうもないかんじにしないと、とてもあなたに声なんかかけられないんだ。これは昔から変わってないポイントだな。ということも餅をラップにくるみながら思い出したりして。
とはいってもまじめな話、ちょっとでもあなたに伝えたかった。あなたには毎日おいしいものをきちんと食べて、ちゃんとぐっすりねむって、幸せに暮らしていてほしいって、僕はいつだってそう思っているって分かってほしかった。何かといらついていた悔やむべきあのころもそうだったし、今はほんとうに真摯にそう思っている。なんてことをさ、数年ぶりの便りでとても書けないじゃないか。だから、いまこうして書くことにした。あなたの便りで、あなたの優しいことばを貰ったから、僕もきちんとことばにしておきたい。あの乱暴な餅年賀でもあなたは汲み取ってくれたみたいだけど、ことばにするのも大事なことだ。……あなたの驚く顔が目に浮かぶようだけど、僕だって成長したんだよ!
というわけで、僕の言いたいことは一通り書いた。読み返すと恥ずかしくて出せなくなりそうだからこのまま封をして送ることにしよう。もともとあなたみたいに綺麗な字でもないから、いまさら誤字ぐらいあってもどうってことないだろ。じゃあ、また話せるのを楽しみにしてる。
追伸 おれが「僕」なんて似合わないかもしれませんが、そうでもしないとやっぱり恥ずかしいのです。