五月、アイリスが花盛りを迎えるころ、この町の子どもたちはみな、初夏の陽気にすっかり遊び疲れている。

それというのも、もうじき炎帝がやってきたら、やさしかった太陽はすっかり人が変わったようになってしまって、地上に這うものたちをぎろりと睨みつけるようになるだろうから。まだ肌のやわい子どもたちはそうなると遊んでいられないので、森の奥の涼しい小屋に集められて、夏中そこでレース編みをさせられる。どうやって紡ぐのか誰も知らない、蜘蛛の糸みたいなおそろしく細い糸で、月面や火蜥蜴といった複雑な模様を編まされるから、子どもたちはみな夏が嫌いだった。

だから春の最後の名残をおもいきり駈けまわっておくために、五月の子どもたちは遊ぶのにとても忙しい。

お祭りは五月の終わりごろ、炎帝の到来を目前に控えた晩に、アイリスの沼で行われる。やさしかった春を惜しみ、これが最後とばかりにはしゃぎまわる子どもたちのためのお祭りで、十五歳までの子どもたちはかならず、アイリスの沼に集まることになっていた。

アイリスの咲き乱れる沼にはこのときだけの遊歩道がこしらえてあって、子どもたちは硝子の床を裸足でかけまわる。ところどころに使われた新式の曹達硝子は、踏むと一足ごとにしゅわしゅわと泡が弾けるので、おもしろがった子どもたちが集中していた。「硝子屋、奮発したね」。「今夏の炎帝はとびきり厳しい方だそうだから、硝子屋は金魚鉢で儲ける予定なのよ」。くすくす笑う声が沼に響いて、アイリスたちも釣られてけらけら笑っている。

気まぐれなアイリスのご機嫌をとるのもこの祭りの大事な目的で、沼地に咲く色とりどりのアイリスを喜ばせるため、子どもたちはめいめい持ち寄ったシャボン液と麦管で、シャボン玉を吹くことになっていた。

きれいに丸く吹けたら、この日のために大人たちが雇った錬金道士が、シャボンの泡に星のあかりをともしてくれる。いつもならば南隣の町から、子どもたちに「満月おじさん」と綽名を付けられた中年の錬金道士がやってくるはずだったけれども、今年はどうやら様子がちがうようだ。

見慣れない黒マントを着たすらりと背の高い男が、沼の上に作られた東屋に立っている。太っちょの満月おじさんとは似ても似つかない道士は、子どもたちが吹いたそばから、まるでポルックスのような黄金色のあかりをシャボン玉の真ん中にともしている。

いつもの満月おじさんは、よほど大きく吹かないと星をともしてくれなかったし、たまにともしてくれた時も、せいぜいドアノブの金鍍金くらいの輝き、こんなにきれいな夜空の黄金ではなかったので、子どもたちは大喜びでシャボンを吹いた。

なかには意地悪をして、強く息を吹きかけて細かな泡を何十も作り、黒マントの道士の腕前のほどを量りたがる子どももいたけれども、見慣れない錬金道士は涼しい顔で、黒マントをちょっと広げた。右手でマントの中を探るような動作をしたかと思うと、何かを蒔くようなしぐさを続けた、その次の瞬間には、真珠のように細かな泡の真芯すべてに一等星がともっていた。子どもたちはいっせいにワアと歓声をあげ、沼地に咲くアイリスたちも感心したように花びらを揺らして「ほう」とちいさく声を漏らした。

これには大人たちもざわめきだして、今年の錬金道士はよほど腕がいいらしい、いったい誰がどこから呼んだのかと口々に言いあったけれども、不思議なことに誰ひとり黒マントの錬金道士を知るものがない。毎年錬金道士に依頼状を書いている代書屋が、いつもの男を隣町から呼んだはずだと言って首をかしげているので、大人たちは気味悪がった。

とはいえ、そのあたりの不審は、子どもたちにはかかわりのないことであって、金星のシャボンのうつくしさに早くも慣れた子どもらは、いまやシャボン玉をうまく弾けさせることに躍起だった。みな、ふわふわと風に流れるシャボン玉を追いかけては、弾けたシャボンの飛沫を髪に浴びようと懸命に身体を伸ばしている。

弾けたシャボンの星のかがやきをうまく髪に受ければ、うつくしい黄金が自分のものになる――そんな言い習わしのためであったが、昨年はある少女がこの方法で見事な金髪を手に入れたうえ、異国の金持ちに見初められて玉の輿に乗ったものだから、今年の子どもたちはいつにもまして熱心に取り組んでいた。

なかでも熱心に弾けるシャボンを追いかけまわしているのは、今年で十五、祭りの晩に駆け回るのも最後になる少年であった。名をルーという。彼の髪は褐色、本人としては碧の眼も含めて特に自分の色目に不満はなく、玉の輿を夢見て躍起になった同い年の女の子たちのように、金髪への憧れなど持ち合わせがない。しかしそこはそれ、負けず嫌いの彼は、みなが必死になっていることに無関心でいることはできない性質で、一種の遊戯として情熱を燃やしていた。

ルーは愚図な女の子たちの間をすり抜け、さして広くもない硝子の遊歩道の上を、シャボン玉を追いかけてくるくると駈ける。彼が追いかけるのは、彼自身が白砂糖を混ぜて作った特別製のシャボン液を、細工した麦の管で慎重に吹いた、ほかのどれよりも完全な球体のシャボン玉だった。真ん中にはもちろん、ほかのどれよりも天の星に近い、黄金の煌めきがともされていた。

黒マントの錬金道士も、このシャボンに星をともすときは、ほかより丁寧にやってくれた、と彼は自負する。黒マントの道士は満月おじさんと違って、何かの薬を吹き付けるとか、燐寸を擦るとかいった、道士らしいことをなにひとつしない。硝子の遊歩道からは少々離れた東屋から、ただちょっと黒いマントを触って靡かせるだけで、とびきりの黄金をともすのだが、彼の苦心の作であるシャボン球に星をともすときだけは、黒いマントを探ってとりだしたらしいなにか透明なものに、ちょっと息を吹きかけるような動作を加えたのを、彼はちゃんと見ていたのだ。

シャボン玉はアイリスのにおいを混ぜたやわらかな風に吹かれて、子どもたちの頭上をふわふわと揺蕩う。ルーの吹いた大きなシャボンは人目を惹いたので、小さい子も大きい子もみなしきりに手を伸ばして弾けさせようとがんばった。

「ぼくの傑作をほかの子に割らせてたまるものか」ルーは子どもらの中でもいちばんあのシャボンに近い女の子たちの集団をちょっと睨んだ。彼女らはみな一様に雪白や薄紅のレースやリボンにうずもれていて、歩くとコツコツ音がする華奢なバレエシューズを履き、ふんわりひろがったスカートの裾をひらひらさせているが、あれでなかなか油断のできない機敏さなのだ。なんせ玉の輿がかかっている。

しかしもちろん、負けてはいられない。ルーは思い切って駆け出し、女の子たちのただなかに飛び込んだ。ピンクのリボンとレモンイエローのレースの間に体を滑り込ませる。華やかで甘ったるい色彩に囲まれて、ルーの紺の上着や茶色の靴はとてもよく目立ったので、ちゃらちゃらしたおませの女の子を軽蔑する少年たちからいっせいに歓声があがった。

ルーが振り向いて笑ってみせると、彼らはますます盛り上がった。そのせいかルーを取り囲む女の子たちの負けん気に火がつき、少年たちほどわかりやすい性質でない彼女らは、氷のように上品に微笑んで見せた。

「まあルー、おしとやかにしてなくちゃ、お金持ちに見初めてもらえなくてよ」
いちばん目立つ容貌の少女が母親の口調をまねてからかうと、ほかの子たちも面白がって、くすくす笑いながら女友達にするような手つきでルーの手を握ったり、自分の髪飾りをルーの髪につけてやったりしはじめた。

そのうちに、どこからか伸びてきた手がルーの首筋を撫ぜて、抗う間もなく鼻先に何かをシュッと吹き付けられた。肺のなかが甘ったるいにおいで満たされ、薔薇香水だと気付くと同時に、くらりと気が遠くなる。

顔を顰めるルーが面白かったのか、少女たちはいっせいに手を放して距離をとったので、ルーはバランスを失い、気が付くと足元に硝子の床がなくなっていた。 後ろ向きに墜ちてゆきながら、いまだ弾けずに揺れているシャボンの黄金星と、錬金道士の黒いマントが視界の端を滑る。

ルーの意識はそこで途切れた。

ばしゃん、と大きな音を一つ立てたきり、ところどころシャボンの星に照らされた昏い沼の水面はただしんと静かなばかりで、ルーの吐息のかけらも見えない。

沼底にむかってルーの名を呼ぶ者、闖入者に激昂するアイリスたちをなだめる者、一帯が騒然となる中、黒いマントの錬金道士は初めて東屋から離れて歩き出した。足音とは思えない足音を鳴らす不思議な歩き方で道士が硝子の遊歩道を進むと、一足ごとに曹達硝子は線香花火のようにぱちぱちと薔薇色の閃光を放った。はじけ飛んだ火花は空中で丸い水しぶきのようになり、水面に落ちるまえにアイリスがぱくりと食べてしまった。むしゃむしゃと紅い花火を咀嚼するアイリスは、闖入者のことなど忘れたように夢中になっている。

道士が近づくと歩道の上に犇めき合う子どもたちは器用に道を開け、シャボンの星明りも明るさを増すようだった。それどころか、灯されたシャボンも灯されないシャボンも、ふわふわと道士に引き寄せられて、今や錬金道士はシャボンの群れを頭上に引き連れて歩いている。

造作もなくルーの落ちた場所まで来ると、錬金道士は腰を屈めて足元の赤い閃光を指に掬った。火花か飛沫だったはずの薔薇色は、錬金道士の手の中ではどういうわけか小さな紅い羽根になって、ふわりと風に飛翔した。道士は羽根の行方を見ようともせず、ふいに頭上のシャボンを仰いだ。

虹色にきらめくシャボンの群れの中で、ひときわ大きいのが、ルーの吹いた球体である。道士は右手で黒いマントを広げ、左手を前に伸ばして指先でちょいと招くようなしぐさをした。すると金の星をやどしたシャボンは磁石にひきつけられるように、まっすぐに道士のマントの中に飛び込んだ。シャボン玉をマントにすっかり隠してしまうと、道士は次に、音もなく水面に墜ちていた赤い羽根を見やった。それはちょうどルーが落ちたのと同じ地点で、道士はそこから視線を逸らさないまま、マントの中を左手で探ってさきほど仕舞ったばかりのシャボンを取り出し、水面に向かって無造作に投げ出した。

金の星のシャボンは紅い羽根のある場所に墜ち、沼の上で一瞬金色の焔をあげたかと思うと、ぱしゃんと音を立てて紅い羽根ごと沼底に沈んでしまった。まぶしいほど明るかった一等星も、暗い沼に沈むとあっという間に見えなくなって、あたりの人々をぞっとさせた。

羽根とシャボンが見えなくなってから何も起こらないので皆が再びざわめきだしたころ、錬金道士は観衆の反応を全く意に介さないで、無言のまま左手で黒いマントを今までになく大きく広げた。すると、黒いはずのマントの内側は黄金色に染まり、眼を焼きそうな強い光を放っていたので、次に飛び出してきたシャボン泡の小さな破片が、金の輝きを跳ね返してまるで流れ星のようだった。

ふいに、びゅうと強い風が吹いて黒マントを煽った。瞬間に強くなった光線に皆が目をくらませていると、風に吹かれながらも道士はそれ以上何を取り出すでもなくマントを閉じてしまった。ちかちかする眼をこすりながら皆がいぶかしんでいると、やがて風がやんだ。

そして、黒いマントの錬金道士は、足元に跪いて、硝子の床に転がった小さな人影を両手でそっと抱き起した。

金の光の余韻を全身に纏い、気を失ったまま抱かれる金髪の子どもを見て、大人たちも子どもたちも歓声を上げた。ルー、と名を呼ばれても子どもはまだ眠っていたし、金の髪は見慣れなかったけれど、紺の上着も茶色い靴も、こどもっぽい面差しも、たしかに落ちたルーに違いなかった。

錬金道士はそのままルーを抱き上げて、もときたのと同じ足取りで東屋にもどり、縁石に腰かけると、自分のひざの上にそっとルーを横たえた。しびれを切らした大人たちが駆け寄ってきて、しきりに名を呼んだがルーは目を覚まさない。道士は、仕事は終わったとばかりに、ルーの金に染まったうつくしい髪を撫でるばかりだった。

もしかしてもう事切れたのか、と錬金道士の静かな貌を皆がすがるように見上げると、道士は顔を上げたりはしなかったが、それでも初めて口を開いた。
「この子を助けたいのなら、きちんと御代をいただきたいものですな」
砂漠の風に掠れたようでありシャーベット水のように甘くもある、奇妙な響きの声は、年寄なのか若者なのか、誰にもわからなかった。まるで悪魔のようだという者もあったし、聖人さまだと囁く者もある。しかし錬金道士は一切を意に介さず、ひざの上のルーを見ていた。

「もちろんです、道士さま。なんなりとお礼を致しましょう。どんなことでも仰ってください」
「その言葉、確かに聞き届けましたぞ」
酒屋のあるじが進み出て、ひれ伏さんばかりに言うと、錬金道士は砂漠の薔薇によく似た例の不思議な声色で答え、ルーをひざに乗せたまま、黒いマントを左手で広げた。マントの中はもう先ほどの金色ではなくなっており、まるで夜空のような紺地のなかに色とりどりの星座たちがうずもれている。すると、ルーが小さく声を上げ、金の髪を揺らして身じろぎをした。

大人たちは口々に名前を呼んだけれども、ルーの耳に届く前に、錬金道士は黒いマントの夜空の中にルーを覆い隠してしまった。本物よりも美しい星空のなかで目覚めたルーが見たのは、マントの中を飛翔する白鳥座と、小さく微笑む錬金道士の藍色の眼であったろう。

錬金道士が黒いマントを夜風に靡かせて音もなく立ち上がると、もうどこにもルーの姿は見えなかった。子どもが強請っても、大人が問い詰めても、道士は二度と口を開かなかった。沈黙を守り、表情を変えぬまま、もう一度左手でマントを広げ、手を離したときには、ルーはおろか、錬金道士までも煙のように消えてしまった。
あとに残ったのは、呆然とする子どもたちと大人たち。それからアイリスたちのひそやかな笑い声だけだった。

春を送るお祭りの最後、たくさんのシャボン玉が金の星もろともに弾けて消えてしまったころ、アイリスたちは決まって歌を歌う。

子どもたちがシャボン玉で上手に機嫌をとれた証拠だったから、大人たちはそれを聞いて胸をなでおろすのだった。今年のアイリスたちは、今までに聞いたことがないほどの軽やかさで、美しい歌声を響かせている。複雑に折り重なりすぎて、歌の中身はあまりききとれなかったが、愉しげな和声は誰の耳にも心地よかった。

ところどころ聞き取れる歌詞の中には「移動式実験室」や「エリクシル精製」といった、いつもの歌には出てこないはずの、聞きなれぬ語が頻々と登場し、子どもも大人も首を傾げた。錬金道士とルーに関係があるのかと思いついた誰かがアイリスに意味を尋ねたけれども、アイリスたちは顔を見合わせてくすくすと笑うだけ。気まぐれに「あのマントのことよ」と言ったきり、知らんぷりで歌うばかりで、何も教えてはくれなかった。

天を仰げば、東の空に白鳥座が昇りはじめている。
春の終りと炎帝の到来を告げる天の十字の出現に、ある少女はついに来たかと息をのんだ。今年の炎帝は厳しいお方だと聞く。あまりに厳しいと、いくら森に隠してもレース編みが捗らないのだ。恐ろしいのは炎帝だけではない。捧げもののレースがなければ、どの王よりもお厳しい、冬の女王の機嫌を損ねてしまう。

そこまで考えてため息をついた賢明な少女は、もうひとつのことにも思い当った。炎帝の支配が始まっても、冬の女王が冷たい息を吹きかけても、ルーはもうこの町に戻ることはないだろう、ということだ。

錬金道士がどこからきてどこへゆくのか、知るすべはない。
それは、炎帝の到来を阻むことができないのと同じくらいに、確かなことだった。



(移動式実験室|2011.08.28)