黄水晶とエメラルドの結婚

霜月姫が翠緑様に妻わされたのは、よく晴れた、しかし風の冷たい夕のこと。親仁さまのお言い付けを守り、決して面を上げなかった霜月姫は、夫婦の盃を交わす段となり、遂に翠緑様の顔容を目の当りにした。

盃を持つ手の何と大きなことだろう。まるで天狗のような鼻をして、そのくせ、霜のように白いときた!花婿の異形に恐れをなした霜月姫は、盃を持つ手をがたがたと震わせた。花嫁の気色を気遣った花婿の目配せも、霜月姫には爛爛と光る異様な緑眼としか映らない。緑色の血が通う怪物が、この身に触れるとは耐え難い所業!霜月姫は金屏風の前で気を失ってしまわれた。

初更、北の方で目を覚まされた霜月姫は、傍に控えていた女中腰元を皆な廊下に侍らせ、翠緑様を寝間に入れぬようきつく言い付けたために、花嫁が起きたのを聞きつけてやって来た翠緑様は、新枕どころか言葉さえ交わすこともなしに、扉の前で引き返すこととなった。
同じようなことは次の晩、また次の晩と繰り返され、夫婦が顔を合わせるのは、朝餉夕餉の席ばかりという有様であった。


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そんな日々が続いたある朝、翠緑様は嫁君の気晴らしになればとの思し召しで、霜月姫を鏡池にお誘いになった。鏡池は翠緑様のお屋敷の奥庭のそのまた奥にひっそりとある。そのような物寂しい場所に怪物となど行けるはずがないと最初は固く拒んでおられた霜月姫であったが、鏡池には水面に人の行末を映し出すとの言伝えがあると教えられ、渋渋ながら承諾なさった。もしかして、いまいましい緑眼の怪物から逃れ、別の美しい婿さまに嫁いで仕合せに暮らす、夢のような未来が映りはせぬかと期待なさってのことだったが、そのようなこととは思わぬ翠緑様は、初めて申し出に諾と言われたのを大いに喜んでおいでであった。

鏡池まで連れ立って歩く間も、霜月姫は下女たちに四方を囲ませ、夫君に指一本触れさせようとしなかった。それでも翠緑様はあれこれと話しかけて厭な顔をなさらない。翠緑様のそんなお優しい振舞が霜月姫には却って醜悪に思し召され、ますます厭な気持ちばかり募るのだからどうしようもない。結局、鏡池の前に立つまで夫婦はまともに会話をしなかった。

池の傍に着き、作法に則って下女たちを鏡池の縁から遠ざけると、霜月姫はただでさえ夫君から離れた場所にいたのをさらに距離を置き、翠緑様への拒絶を顕わになさる。翠緑様はその緑眼を悲しげに揺らしただけで矢張り何も仰らず、静かに微笑んで先見の作法を説明なさった。

―――池の縁に跪いて叩頭し、「鏡池の主様、私は貴方を慕う者。どうか主様の千里眼で、我が行末を見せ給え」と唱えればよい。水面を覗けば、すぐにも行末が映し出されよう。

霜月姫は翠緑様に返事も寄越さず、元から知っていたような澄ました顔で、言われた通りに作法を行われた。

―――鏡池の主様、わたくしは貴方を慕う者。どうか主様の千里眼で、わたくしの行末を見せ給え。緑眼の怪物と縁を切り、新しい夫と仕合せに暮らす姿を、どうかどうか、お映しください。

誰もが見惚れる優美な仕草で跪いた妻が、残酷な願いを熱っぽい声で述べるのを、翠緑様は聞き届けた。なぜあれほど頑なだった霜月姫が、珍しく諾と言ったのか。これがその答えであったかと一旦は嘆いたが、水面に映しだされた姿を見、翠緑様は哀しいのを忘れて目をまるくした。

鏡池の水面には、満ち足りた様子で微笑む霜月姫が、当人の願いどおり確かに映し出されたのだが、その隣で睦まじく妻の肩を抱くのは、知らない男ではなかったのである。大きな手に、ごつごつした顔、爛爛と耀く緑の眼―――鏡池は、驚くべきことに、霜月姫と翠緑様がすっかり打ち解けて仕合わせになるという、今の有様からはとても信じがたい行末を映して見せた。

霜月姫は、絶望のあまり狂乱した。水面に揺らぐ幻とはいえ、己が緑眼の怪物にしなだれかかる様を目の当たりにするなど、とても耐え難い仕打ちと言ってよかった。自らの身体を血が出るほど掻き毟って、まやかしは早う消えろ、と泣き叫ぶ妻を、翠緑様は懸命に宥めようとなさったけれども、すっかり錯乱した霜月姫は聞く耳を持たず、先見の言伝えなど嘘に決まっておる、幻を映して謀ろうとしているのであろう、と喚いては、狂人の無茶苦茶な力で暴れる始末。翠緑様は悲しみながらも、錯乱した妻が池に落ちぬよう押し留めていたが、霜月姫にはそれが、怪物に心を許した己を映す許しがたいまやかしを、緑眼の怪物が守らんとしているかに見えた。思い込みからさらに激昂した霜月姫は、池の縁に立ちふさがる翠緑様を、あろうことか、渾身の力で突き飛ばした。

そうして翠緑様は、実に呆気なく池に落ちてしまわれた。
特に抗いもなさらなかったのである。

―――妻の拒絶と憎悪の深さを思えば、自分が消えたほうが妻は仕合せになるに違いない。たとえ水面に映る幻であろうとも、霜月姫が醜い緑眼に向ける、耀くばかりの美しい微笑みが見られたのなら、それだけで十分ではないか。

翠緑様は最期にそんなことを考えて、心静かに沈んで行かれたのだが、霜月姫は恐ろしい怪物の肌に触れてしまった自分の手を洗うことで頭がいっぱいだったので、憎い夫が浮き上がってこないことさえどうでもよかった。


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かくして、翠緑様は絶命され、霜月姫は寡婦となった。憎い怪物の夫がいなくなったことで正気を取り戻した霜月姫は、そ知らぬ顔で葬儀を済ませ、四十九日が過ぎると嫁入の口を探し始めたが、夫殺しの噂のある女に貰い手は現れず、結局もとのまま翠緑様の屋敷に留まった。

翠緑様は死後に遺産がみな妻の手に渡るよう取り計らっておいでであったので、霜月姫は金子の心配などせず遊んで暮らすことができた。錦の着物に金襴緞子の帯、鼈甲の櫛と花簪、紅に白粉、香を焚き染める銀の香炉、唐渡りの焼き物、ギヤマンの壺。ありとあらゆる贅沢とお洒落をして、毎日を面白おかしく過ごし、お仕合せそうな霜月姫は、翠緑様存命中とはまるで別人のような明るさで屋敷中を飾り立てた。

霜月姫に先の憂いは何もなかった。悪い噂があるとは言え、若く美しく、しかも金持ちの姫のこと。寄ってくる男は多く、そのうち嫁に欲しいという者も現れるだろうと、霜月姫は高をくくって男どもをあしらい、いずれ男ぶりのよいのを捕まえるため、ますます着物に化粧にと贅沢をなさるのだった。

しかし、そのうちに、そのうちに、と思っているうちに数年があっというまに過ぎてしまった。まだ年増とは言えないにしても、既に大して若くもない女、しかも豊かだった財産はだいぶ目減りしてしまっている。財布の中身が頼りなくなるとともに、美貌にも翳りが見え始め、ますます縁は遠くなっていたが、霜月姫はいつまでも変わらぬ積りでおられ何も気づくことなく、これまでと同じ調子で金を遣い続けた。


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さらにそれから数年が過ぎ、お屋敷の金蔵は残らずすっかり空になって、使用人たちは皆な愛想を尽かし、荷物をまとめて出て行った。そのときでさえ霜月姫は事態をよく呑みこんでいなかったのだが、大晦日の決済日に支払う金がなく、嫁入道具の桐箪笥や祝言に着た白無垢まで質に入れ、それでも足りずに絹の上着を剥がれそうになるという段になって、霜月姫はやっと蒼白になった。価値が判らずに放置していた翠緑様の書籍類が高く売れたのでその場は事なきを得たが、いつまでもそういうわけには行かない。それくらいのことは、さすがの霜月姫も理解なさった。

だからといって、深窓育ちの姫君が、働き口を探そうなどと考え付くはずもなかった。屋敷中の品々を売り払ってなんとか飢えない程度の生活は保ったが、下々の者どもに指をさされながら屑米を買い、慣れない炊事に珠のようだった手肌を荒らさねばならぬ有様。

―――この屈辱!

霜月姫は唇を噛む。その赤い口唇から、柘榴石のように真っ赤な血が一すじ流れ落ち、粗末な木綿の着物の上にぽたりと落ちた。ああ、やってしもうた、と霜月姫は頭を掻き毟る。この小さな血の痕を洗濯する方法も、霜月姫にはわからない。かといって、着替えられる別の着物などとうに無かった。真っ赤な汚点のついた着物、それも木綿の、不細工な柄の安っぽい古着。そんなものを着て歩けるものか。誇り高い水晶の姫として、そんなことは堪えられない。だったら、どうすればよい?

考えに考えて、霜月姫は潔く身を投げようと決めた。

夫を殺すことより、緑眼の怪物に嫁ぐことより、汚れた着物を汚れたまま着ることが、何よりも恥ずかしい。霜月姫の誇りは、そういう形をしていたのだった。また、自死は当代のご禁制の一つではあったけれども、誇り高く綺麗に死んだ女は賞賛の的でもあったから、無様を晒さずに美しく水に沈んだなら、いずれ浄瑠璃に語られることとなるやもしれぬ―――世間知らずにもそう思い込んで、霜月姫は心を決めるやいなや鏡池に急いだ。無論、夫を殺し、贅沢放題の末に死んだ年増女が芝居の種になどなりようがないのだったが、それは、霜月姫のあずかり知らぬことである。


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かつては翠緑様に連れられ、大勢の下女達に囲まれてやってきた鏡池も、今度は一人。相も変わらぬ澄み切った水面を前にして、急にもの哀しく、みじめな気持ちがこみ上げてきた。いや、しかし、と霜月姫は自らをはげます。

―――わたくしは、女の細腕でぶざまに落ちた緑眼の化け物なぞとは違う。己で死を覚悟して、高貴なる水晶の姫君として美しく立派に死ぬのだ。きっと人々も、怪物に嫁いだばかりに運命を狂わされたわたくしに、同情するに違いない!

霜月姫は自分にそう言い聞かせ、汚れた木綿の着物を肩からはらりと脱ぎ落とした。貧相でみっともない着物など着ているより、美しい裸体を澄んだ水面に投げるほうが、鏡池の主様もお喜びになるだろう、そう考えたのである。新妻だったころほどではないとはいえ、確かに霜月姫は美しかった。甘やかな色をした匂いたつような肌を、ついに誰にも触れさせることの無いまま、霜月姫は鏡池の水面に映す。そのさまは奇妙なほど艶やかであった。

―――さあ鏡池、わたくしを呑みこんでしまえ。嘘の予言で惑わせたお前に、わたくしの身体を拝ませるのは癪だけれど。あの緑眼を取り込んで、二度と浮き上がらせなかったのは誉めてやろう。

霜月姫は、つんと澄ました表情を崩さず、実に潔く水に身を躍らせた。それは何ともさりげない優雅な仕種であって、もし見物人がいたなら見事と称えたかもしれぬ。まことに美しい入水であった。こうして、霜月姫は夫君と同じく鏡池に呑みこまれ、その生涯を終えたのである。


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人々は、翌日も、その翌日も、霜月姫の入水を賞賛するどころか、その死に気づくことすらなかった。どうせ夜逃げの末にどこかの河原で身売りでもしているのだろう。金貸しはそう決め付けてフンと鼻を鳴らしただけで、抵当に入っていた屋敷を即座に売り払い、霜月姫の借金をすっかり清算してしまった。

それからひと月もたたないうちに、翠緑様のお屋敷には買い手がついて、新しい住人がやってきた。なんでも翡翠を扱う大商人だとかで、引き連れてきた大勢の使用人がお屋敷中を綺麗に掃除したために、翠緑様と霜月姫の名残はこの世からすっかり消えてなくなった。しかしただ一人、大勢の使用人のうち、一番年少のある丁稚だけは、二人の最後の足跡を見届けた。丁稚は雑草刈りに寄越された鏡池で、不可思議な光景を見たのだという。翠緑様と霜月姫の行末を窺い知るすべは、既にその子どもの証言ひとつしかない。

―――よく晴れた、しかし風の冷たい夕のことでした。夕暮れの菫色に染まった鏡池の水面から、二羽の蝶が飛び去ってゆくのを見ました。一羽は翠緑玉のような緑の翅、もう一羽は黄水晶のような淡黄色の翅をした、それは美しい蝶々でした。二羽は、夫婦のように仲良く寄り添いあって、月の昇り始めた西のほうへ、ひらひらと飛んでゆきました。


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果たして、その光景にどんな意味があるのだろう。かつて映し出された仲睦まじい夫婦の姿が、蝶となった二人によって達成されたのかどうか、鏡池の主のほかに知るものは無い。
ただ、一つ言えるとすれば、その後も鏡池は人の行末を水面に映し続けたし、それは決して外れることが無かったということだ。だとするとやはり……などと考えるのも、我々の自由ではあろう。



(了)







素材:青の朝陽と黄の柘榴