橙だった空が菫に変わる、ちょうどその境の時分です。私はいつもどおり、勤め先からの帰り道、店じまいを始める商店街をゆっくりと歩いていました。最近は昔ながらの舗は流行らないと見えて、シャッターの閉まったきり開かないところが増え、アーケードは途切れがちです。私のほかには通る人もなく、看板のペンキも色褪せて、そう遠くない未来、この町並みそのものがなくなるのだろうと思わせる風情でした。
馴染んだ風景が失われる日を案じて、せっかちな溜息をついたそのときです。目にも鮮やかな赤い色が、私の視界に飛び込んできました。薄暗く、どんな色もセピアに褪せてしまうこの商店街の中で、その赤だけがまじりっけなく、私の瞳を刺すようでした。一体なんだろうと眼を凝らすと、赤はくるりと身を翻しました。
振り向いたちいさなこどもの黒くてまるい眼に見上げられて、私はその鮮やかな赤が男の子の被った頭巾の色だったのだと気付きました。絵本の挿絵でしか見たことのない、古風な形の真っ赤な頭巾ですが、この子にはたいそうよく似合っております。
ふしぎな存在感を持ったこどもは、こちらの様子を窺っているようでした。遠ざかりも近づきもしない間合いは猫に似ています。赤い頭巾から零れる毛並みは真っ黒、見上げるまるい瞳も黒で、夜になったら案外簡単に闇に紛れてしまいそうです。
しばらくすると、男の子ぱたぱたと歩み寄ってきました。私の顔を見上げたまま近づいて、知らない大人と向かい合うにはほんの少しだけ遠い距離で立ち止まります。白い靴下に茶色の革靴を履いた足をきちんと揃えて行儀良く立つと、遠慮がちに口を開きました。
「あのう、すみません。ぼくの燐寸を見ませんでしたか?」
男の子は丁寧な言い方で尋ねましたが、私はまだ赤頭巾の少年の登場に戸惑っていたので、しばらく返事をするのを忘れていました。
返事もせずに近くでじっと見つめていると、最初の印象よりも不安げな表情が見て取れ、夢うつつにさえ感じられます。なにかとても大事なことに気を取られて、瞳がふらふらと揺らいだかと思えば、焦れたように私の目を覗き込みます。その必死な様子に、私は質問されていたことを思い出しました。
「わるいね。燐寸が落ちているのは見かけなかったよ。」
私のつれない答えを聞くと、男の子は肩を落として「そうですか」と呟きました。方々探した後だったのでしょう。すっかり力を失くしてしまった様子で黙り込んでおります。私はこどもを気の毒に思って見ていましたが、うつむいた真っ赤な頭巾のてっぺんが見えるばかりで、泣いているのやら怒っているのやら、様子の分からないのがますます気がかりになってきます。面倒と感ずる気持ちがないではありませんでしたが、真正面で下を向いているこどもを避けて去ってしまうのはどうにも気が咎めましたので、私はその場から動けずにいました。こどもはズボンの裾をぎゅっと握って、何か考え込んでいるようでもあります。
どうしたものかと天を仰いで、私は胸のポケットに手を入れました。手持ち無沙汰になるとすぐ煙草に手を伸ばすのはおとなの悪いくせです。さっそく一本取り出して咥え、ライターに指をかけたところで、ふと思いつきました。
「ねえ、きみ。その燐寸はなにか特別なものなのかい?なんなら、このライターをあげようか?」
こどもの前で吸うのは良くないかと思い直して、火のついていない煙草を箱に戻しながら私が言いますと、赤頭巾の少年はぱっと顔を上げ、奇妙なことを聞いたとばかりに首をかしげました。
「ライター?そのライターで火をつけるの?」
「そうだよ。ほら、ここをカチッとまわせば、火がつくだろう。」
もしかしてこの子はライターが火をつけるものだと知らないのでしょうか。私が点けて見せたライターのちいさな火を、男の子はじっと見つめています。私は膝を曲げて跪くような格好になり、男の子の目の前に炎を掲げてやりました。危ないので近すぎないように、でもよく見えるようにできるだけ傍まで寄せてやります。私と少年の真ん中で風にゆらゆら動く火は、赤い頭巾からのぞく黒い眼の中でも燃えていました。左手をかざして風から炎を守ると、こどもは丸い目をもっとまるくして、ぱちぱちと目を瞬かせます。なにか大事なことに気がついたような、笑顔でもないけれど嬉しそうな様子でした。
「ありがとうおじさん。きっとそのライターでも点くと思う。」
「そうかい、それはよかった。」
着火装置から指を離して火を収め、私は赤頭巾の少年にライターを差し出します。
「ほら、持っていくといい。」
「うん、ありがとう。ううん、ありがとうございます。」
小さな手にライターを載せてやると、こどもは弾んだアクセントでお礼の言葉を言いました。こどもの礼としては十分ですのに、この子は慌てて丁寧に言い直すので、律儀なさまにつられた私はまるでおとなを相手にするように「いいえ、どういたしまして」と述べました。
「今度お礼を届けます。ワインとケーキと、どちらがいいですか?」
安物のライターを大事そうにズボンのポケットに仕舞うと、男の子は尋ねます。私はびっくりして首を振りました。
「とんでもない。ライターひとつでそんなもの貰えないよ。」
「そんな!ぼくの燐寸のかわりだもの、少ないくらいだ。」
私の返事は思いがけないものだったようで、少年はこどもの口調に戻って叫びます。困ったことになりました。これでは彼の燐寸がワインやケーキにはちっとも及ばないつまらないものだと言ってしまったも同然です。決してそんな積もりではありませんでしたし、この子の大事な燐寸ならワインなんかよりずっと重要だとは思うのですが、私の安っぽいライターにワインやケーキが釣り合うとは到底考えられません。では、燐寸とライターの両方に釣り合いの取れるお礼はなんでしょうか?
答えはひとつしかありません。男の子に納得してもらうため、私はすばらしい名案を思いついたかのように手を打って見せました。
「そうだ。きみの燐寸を貰うというのはどうだろう。」
「ぼくの?失くした燐寸をどうやってあげるの?」
男の子はきょとんと首を傾げました。目論み通りの反応です。私は安堵しましたが、気を抜かぬように出来得る限り真面目そうでもっともらしい口調を作りました。
「探すのをやめたころに探し物が見つかるのはよくあることだよ。きみの燐寸もいつかひょっこり出てくるにちがいない。そのとき、私に届けてほしいんだ。」
「うん、それならできるよ。あの、でも、もしも見つからなかったらどうすればいいの?」
私の顔をぽかんと見上げていったん頷きかけたこどもは、思い直して尋ねました。それでもできれば私の言うようにしたいと思っている様子でしたので、私は腰をかがめてこどもと目を合わせるようにしました。それから、努めて大人らしくほほ笑んでみせます。
「きっと見つかるよ。たぶんずっと後になって。」
何の拠り所もない言葉でしたが、口に出すと自分でもそんな気がしてくるのですから不思議なものです。私のいいかげんな予言は妙に真実めいた響きをもって、私とこどもの耳に届きました。男の子は昂奮を押し殺したすまし顔で、こんどこそ言ってくれました。
「わかった。わかりました。ぼくの燐寸をきっと届けます。だからそれまで待っていてください。」
「待っているよ。楽しみに待っている。」
私がそう約束しますと、こどもは神妙な顔つきのままゆっくりと頷きます。まるでお芝居のような重々しいしぐさに、私はなんだか不意をつかれたような気持ちでした。しかし男の子は私の驚きなど意に介さない様子で、なぜかズボンのポケットを探っています。しばらくすると、先ほどライターを仕舞ったのとは反対側のポケットから、真鍮の鍵をひとつ取り出しました。鍍金の剥げた古めかしい鍵です。
「約束のしるしに、この鍵を持っていて。ぼくの燐寸の鍵なんだ。」
「燐寸箱の鍵かい?それにしては大きいけれど。」
差し出された鍵を手にとってしげしげと眺めながら、私は尋ねました。人差し指ほどもある大きさは、どこかの邸宅の錠前か、でなければ大きな宝箱の鍵にしか見えなかったのです。
「燐寸の鍵だよ。ぼくの燐寸に外箱はないもの。」
赤頭巾のこどもは私が何を不思議がっているのかちっともわからないようでした。
「燐寸を開けるときは、鍵を鍵穴に差し込んで三回まわしてね。」
この子のいう「燐寸」とは、一体どんなものなのでしょう。もしかすると、私が考えているものとはまったく別のものかもしれません。でもふしぎと、何も尋ねる気になれませんでした。
「わかった、三回まわすんだね。」
「うん。燐寸を見ればきっとすぐ分かると思うよ。」
それはよかったと頷いて、私は燐寸の鍵を背広の胸ポケットに仕舞いました。元はライターを入れてあった場所です。それを見て満足そうに笑った男の子の顔は、夕闇の迫る街角に、ぱっと明りを点けたようでした。白い頬が赤い頭巾よりも鮮やかに見えて、ふいに、辺りの薄暗いことに気が付きました。空を見上げれば、菫が藍に染まりそうです。
「さあ、そろそろ行かないと、じきに夜になってしまうよ。」
「本当だ。帰らなくちゃ!」
私が促すと男の子は周囲を見回し、慌てた様子で叫びました。ズボンのポケットに手を入れて、仕舞ったライターを確かめると、「よし」とちいさく呟くのがなんだか可笑しく思えて、私はこどもに気付かれないようにこっそり笑いました。
「いけない!大事なことを忘れてた。」
鍵までかけた大事な燐寸を落としてしまうくらいですから、この子は少しそそっかしいところがあるのかもしれません。私は笑って尋ねてやりました。
「まだ何か忘れものかい?」
すると、男の子はばつが悪そうに答えました。
「おじさんの名前を教えてもらうのを忘れてた。」
そのときの声の調子ときたら、まるで大事な書類に判子を押し忘れでもしたようです。ですから私はつい、「そんなことか」と言ってしまったのですが、すぐにそれを後悔しました。
「そんなことだなんてひどいよ。おじさんの名前を聞いているのに。」
また先ほどの「なにが不思議なのかわからない顔」をしていますが、今度は大事なものをつまらないと言われた悲しい気持ちまでが見て取れます。燐寸の鍵の不思議のように、この子にとっての大事さは、私には計り知れないものなのでしょう。燐寸箱ではなく燐寸に鍵を掛けるということをやってみるようなつもりで、私は赤頭巾のこどもに自分の名前を告げることにしました。
男の子は、聞いたばかりの私の名前を、確かめるようにゆっくりと発音します。私が頷けば、安心した顔で笑って、「ありがとうございました」と言ってくれました。
自分の名前を宝箱の鍵を受け取るような慎重さで受け取ってもらうというのはなかなかに嬉しいことだと、そのとき私は生まれて初めて知ったのです。
「じゃあ、今度こそぼく帰るよ。」
「もう忘れ物はないね。」
「うん。ぼくの名前は言えなくてごめんなさい。」
そういえば、この子はけっきょく名乗りませんでした。それはどうして、と尋ねかけた瞬間、赤い頭巾のこどもはふわりと背中を向けてしまいます。その後ろ姿が少しさみしそうに見えたので、私は訊かないことにしました。きっと、なにかとても大事なことがあるのでしょう。
待っていてね、と最後に言って、男の子は駆け出しました。赤い頭巾の後ろ姿が夕と夜の境目にあっけなく溶けてしまったのは、少し意外なことです。褪せた色合いの商店街であの子はあんなに鮮やかだったのに、まるで夜に呑まれてしまったようでした。黒い仔猫が闇に紛れるのは当然のことですけれど、こうもあっさりと行ってしまうとは。もう少し長く見送る積もりでいた私は、誰もいない商店街にしばらくのあいだ佇んで、燐寸と少年のことを考えました。
いつか見つかったら届けてくれるという燐寸は、私の知っている「燐寸」ではないに違いありません。三回まわして開く鍵も、鍵こそ「鍵」のかたちでしたが「鍵穴」はどうかわかりません。もしかしたら燐寸というのは、火をつけるものではないのでしょうか。でもあの子は、ライターを持っていきました。「火を点ける」とも言いました。だったらやっぱり火を点けるはずです。ではいったい何に火を点けると言うのでしょう。
ふとある答えが頭に浮かび、それを潮に私は家路につきました。商店街を抜けてアーケードのない空を見上げると、西のほうに宵の明星が輝いています。紺碧の空にひときわ明るい金の星のもとでなら、いくぶん浪漫的すぎる思い付きも許されるでしょうか。
我が家へと向かう一足ごとに、胸のポケットでは真鍮の鍵が揺れ、私の心をはるかなほうへと導きます。瞼のうらで赤い黒猫と重なるのは、やさしい幻を映して燃えた炎のみなもとや、燃えるということを知らないまま燃えた小さな心といった、御伽噺の断片でした。
火はいつも鮮やかに現れては、ふっと消えてしまいます。それはさみしいことですが、あの子にはライターがあるのですから、いつでもまた赤く燃え立つことができるでしょう。
たぶんその鍵はいま、あの子の胸のうちで揺れているはずです。
おしまい