こんな夢を見た。
ミノタウロスは、牛の頭に人間の体をした異形である。
禁断の交わりの末に産み落とされた怪物、その忌まわしい暴虐は排されねばなれない。
私はアリアドネの糸玉を手にラビュリントス侵入を果たし、ついに今、その中心に辿り着いた。
「なんです、あなた、私のすがたが不満ですか」
迷宮の中心で私を迎えた怪物は、開口一番、実に可笑しげにそう言った。
くすくすと笑うそのありようは、確かに人間のものではない。人ならざる者にしか持ち得ない異様な眼の輝きを具えた、《それ》は紛れもない異形であった。
闇黒の眸に魅入られぬよう腹に力を籠め、私は腰に帯びた剣の柄に手をかけ、必要とあらば即座に抜けるよう身構える。
――しかし、どう見ても、《それ》はミノタウロスではなかった。
「そうですよ、私は件。ミノタウロスとは別の異形です」
クダンと名乗った怪物は、牛頭人身のミノタウロスとは反対に、牛の身体に人間の顔を持っていた。
その面つきはどこかで見覚えのあるものだったが、それが誰なのか思い出せない。
「誰の顔かなんて、思い出さない方がいいですよ」
クダンは心を読む怪物なのか、私が言葉を発さぬうちからすべてを聞き取っているようだった。怖ろしく強大な力にぴりぴりと膚が張りつめるが、ミノタウロスでないものをうち滅ぼしてしまってよいものか、量りかねて動けない。
「件はサトリではありません。件は、予言をするのです。件はあと一日で死ぬところでしたのに――あーあ。出遭ってしまいましたねえ」
ごく当たり前の若い男の、しかし、どこか決定的に異様な低く甘い声色で、クダンは歌うように話した。私は剣を抜けぬままだったが、柄にかけた手は離さない。クダンはそのさまを見遣って目を眇め、闇の色をした眼の中に憐れみに似た色をひらめかせた。
その一瞬間ちらと翻った奇妙な人間臭さに、私は魅入られたように立ちつくすしかなかった。
物も言えずに、怪物の蒼ざめた唇がまたひらくのを見つめる。
「私がミノタウロスでないように、テセウスではないあなた」
ミノタウロスではないものは、私にそう呼びかけた。
「件は、あなたに予言をしましょう」
酷く無慈悲な名で私を呼んだクダンの、宣告はまさに予言だった。
噎せ返るように熱く湿ったけはいが兆しのように立ちはじめ、低く甘やかな声音はじっとりと膚に纏わりついて、私のたましいを浸食する。
予言とは、何と怖ろしい怪物だろうか。
――ミノタウロスでなかろうと構うものか。
息苦しい雨季の庭。降り注ぐ雨。交わされる視線。交わされない言葉。
その幻視に、もはや本能といっていい強烈な恐怖心が私を支配した。
逸る心のまま腰の剣を抜き、六月の雨の温度を切り払うように、虚空を一閃させる。
しかし、クダンは微動だにしない。
「震えていますね。怖いのだったら、あなたは逃げてもいいのですよ。私は、あなたの背中に予言を投げるでしょうけど」
「黙れ! 人心を惑わす忌まわしい化け物め」
「ふふ。そうですとも、件は忌まわしい予言をします。可哀そうに。……でもね、件を殺しても、予言は決して死なないのですよ」
クダンは面白そうに言うとニヤリと笑い、異形の眼で私の眸の奥のほうを覗き込んだ。
その、どこか空虚で切迫した眼差しのありようは、いつかの自分の鏡像に似ている。
ぽっかりと開いた真っ黒な眸の底に投げ込まれ、私はそこに、紫陽花の濡れる青を見た。
「あなたが殺したいのは、件ですか。それとも、予言のほうですか」
件の問いは、やがて降る雨の最初の一滴に違いなかった。
この迷宮の何方にも反響しない言霊は私のたましいにだけ幾重にも谺し、波紋は波になって押し寄せてくる。
用無しになった剣は私の手を離れ、ガラクタのような音を立てて迷宮に投げ出される。
がくりと膝が折れ、地に手をついた拍子に、懐から縺れた糸玉がこぼれ落ちた。
視界の隅を転がっていくのが見えていたが、追いかけて拾い上げようとは思わない。
「私は英雄にはなれない。糸玉はただの糸屑に過ぎず、もはや、どこにも戻れはしない」
目尻からポタリと落ちた一滴と一緒に、予言は私の唇から吐き出される。
私の顔をした件という化け物は、もう、どこにも見えなかった。