こんな夢を見た。

 おれが探しているのは青い鳥ではなかったが、「ここらしい」と聞けば観たくなるのが錬金術師の性というやつだ。好奇心から押し開いた扉の先にあったのは、あちこちの街かどで、幾度となく通り過ぎてきたような、ありふれた構えの酒場だった。

absinthe dreams



 真鍮製の蝶番は開くときだけ軋んで、背中で閉まる時は音がしなかった。ただしその無音から一拍遅れに、危うく思い出したようなタイミングで、ドアベルが騒々しく鳴り響く。その音色は、リゼンブールの田舎で絶えず聞いていた、家畜用の鈴によく似ていた。

 思わず後ろを振り向いてもそこには綿羊などいなかったけど、開いたときはただの重い扉だったその場所には、今や鍍金された四角い額縁が掛けられ、その縁取りのなかでは鎖のついた懐中時計が意味ありげに、でもたぶん無意味に置き捨てられている。

 そういえばチクタクと秒針の音、あるいはそれに似た音が、小さな酒場には響いていることに気付いても、額の中の画以外にはこれといってそれらしい時計の姿は見えなかった。

 入口すぐに佇んだまま、おれはとりあえず店内を見渡す。カウンターに背高の椅子が数脚。それきり他に席のない小ぢんまりした酒場だ。

 漆喰の壁にぐるりと這わされた飾り棚には、それらしく大小さまざまの酒瓶やグラス類が並んでいるが、貴腐ワインだのチョコレートリキュールだのといった品々より、チェリー・ブランデーとグレナデンシロップの狭間にどういうつもりでか紛れ込んでいる、罅われたソーダ硝子のフラスコのほうが、この店にはふさわしい感じがした。

 カウンターの向こう側、暗く深淵のようになったその内側にはシェイカーやマドラーやブラッドオレンジが転がっている。しかし店主らしき人間の姿は見えない。試しに呼びかけても、答えは帰ってこなかった。

 その代わり、まるでおれが店主を呼ぶ声がスイッチででもあったように、どこだか分からない場所に置かれた鉱石ラジオが唐突に目を覚まし、喇叭型のスピーカーから雑音だらけのトロイメライが流れ出した。チクタク云い続ける秒針の音は、こうなると、はじめからメトロノームだったのかもしれないと思えてくる。

 ところで、トロイメライが何小節か過ぎてもどうせ店主は現れないに決まっている、とおれは悟っていたが、この酒場にはもう一人だけ登場人物がいた。

 入口からみて一番奥のカウンターに先客が独り、黒い外套を着こんだ黒髪の男が、黒づくめで広い背中を向けている。男はきらきらする液体で満たされたゴブレットを手にしており、それは長く持ち続けるには相応しくない飲物らしいが、男はそれをちびちびと、舐めるように味わっていた。

 おれは先客から一つ空けた椅子、男から見て左手にあたる席を択び、提げていた旅行鞄を板張の床に投げ出して腰掛ける。酔っぱらったら落っこちそうで、落っこちたら浮かび上がれなくなりそうな感じは、いつのことだったか、取り落して壊してしまった実験室の漏斗台を思い出させた。

 濾過される明礬水溶液になったような気分で、ひととおりは不在の店主を待ってみたが、トロイメライが終わりに差し掛かっても店の奥からは物音ひとつしなかった。投げ出されたシェイカーはおそらくすべてのはじめからそういうふうに投げ出されていたんだろう。あたりに響くのは、曖昧なラジオから流れだすトロイメライと、無言の先客が時折僅かに作る、ごく小さな物音だけだ。

 そのうちに、トロイメライは最終小節を終え、暫くの間、ラジオはただ雑音と秒針だけを吐き出しつづけた。それが何秒だったのかは数えなかったので分からない、とにかくしばらくすると、ラジオはまた何かの音楽を思い出す。

 キリリ、と発条を巻くような音が冒頭に。後に続く旋律は、何のことはなく、二周目のトロイメライが始っただけだった。ラジオだと思っていたこの音は、もしかしてオルゴールか自動オルガンか、そういった仕掛だったのかもしれない。おれは音のみなもとのありそうな、カウンターの奥の深みに目を凝らしたが、暗く落ち窪んだその空間にはそれらしい機械仕掛けは見当たらなかった。

 トロイメライはその後も、延々と、何十回でも鳴りつづけた。先客はその間も変わらずただ黒い髪に黒い外套に伏し目がちな横顔だけを見せていつまででもゴブレットを傾けたり戻したりしている。

 おれは恐らくそれなりに長いあいだ、ただカウンターで不在の店主を待つ、というそぶりを続け、やがて、店の方が根負けしたように、おれの酒が用意された。

 左肘が当たるかあたらないかの危うい位置に、いつの間にか、小さな壜と小さなグラスがひとつずつ並んでいる。

 身体をぶつけて割ってしまうならそれもまたよし、とでも云いたげな位置どりだったが、幸か不幸かおれは壜もグラスも割ることなく、硝子のなかに満ちるペリドット色の液体は、無傷でおれの前に姿を現すこととなった。

 その小さな壜は、香水壜あるいは怪しげな薬壜に似ている。

 満たされた酒の、黄緑に透きとおる異様さも相俟ってそう感じさせるのだろうが、いっそ『赤い水』でないのが不思議なほどに、もはや魔法の始まりと云うしかない何物かが姿を現しつつあった。

 不可思議なカッティングを施されたクリスタル硝子の壜には、卵型を銀で縁取りしたレッテルが貼られ、そこには何の種ともつかない鳥の意匠が付されている。どこでもない場所を飛翔する虚構の小鳥を取り巻くように、巧妙に配置された装飾過多の飾り文字は【absinthe dreams】と読み取れた。

 【absinthe dreams】、アプサントといえば、幻の酒、あるいは魔の酒と謂われ、数々の芸術家はじめ、多くの中毒者を出したと聞く胡散臭い品じゃなかっただろうか。眼前に差し出されれば確かに、魔術じみた薄緑色をした、幻惑の化身にふさわしい異様さがあった。

 妖しく透きとおった黄緑色の酒は、一夜で育った薔薇のような、むかし父に飲まされた苦い煎じ薬のような、奇妙に馨しい芳香を放ち、ノイズに霞むトロイメライの旋律に混ざり込んで、チクタクとおれの眼と心臓を捕えた。
 同時に、魔でも幻でもないただのゴブレットを舐めていた先客の男が、酒精につられたものか、ふとこちらを振り向いたようだったが、おれは振り返って話しかけたりはしなかった。

 先客はどうだか知らないが、おれは別に、青い鳥を探しに来たわけじゃない。【青】そして【鳥】というキイワードが何の符牒なのか確信が持てないが、少なくとも霊薬エリクシルなどであるはずはなく、だとすればきっと、こうして差し出される幻惑くらいがちょうどいい答えだという気がした。

 オリオンに降る雨と同じいろの、透きとおったきらめきを揺らめかす緑の酒は、今、どんな錬金術よりも魔法じみて見える。

 角砂糖に染み込ませて着火すれば、アプサントは青い焔を放つという――そういえばおれはそんなこと誰に聞いたのだろう。対価を俟たず唐突に供された幻惑は赤い石には似ていなかったが、青薔薇か青い鳥になら同じくらいよく似ていた。

 おれは躊躇いなく、小さな壜の硝子蓋をそっと持ち上げ、小さなリキュール・グラスに注ぎ入れた。音もなくグラスは満ち、天高く、どこだか分からない光源から注ぐ人工の明かりを吸いこんで、魔酒は誘いかけるかのごとく煌めいて見せる。

 ペリドット色の酒、その輝石の耀きにおれは感嘆する。妖しい黄緑の揺蕩いの外、グラスに仕込まれた切子細工が、割れた硝子の破片が飛び散るような、飛び去った鳥から羽根が舞うような、しかしそのどちらでもない、曖昧な欠片を鏤めてまるで別の宇宙の夜の景色を造っていた。

 人間の抱けるものならどんな幻も、どんな夜のどんな夢も、アプサントは緑色した酩酊のなかに取り込むだろう。

 おれは吸い込まれるように手を伸ばしていた。

 先客の男は、今や背を向けることなく、アプサントを注いだグラスを掴もうとするおれを、彼自身の眼でとらえており、おれもそれに気づいていた。さらに、黒髪の男はおれに何か呼びかけたようであり、その声は深くて心地のいい天鵞絨のような響きを持っているようでもあった、けれどもそのタイミングはちょうど、行方の知れないオルゴールから流れるトロイメライがひときわ情感たっぷりにフォルテになった時だったので――或いはそうでなくても――おれは先客に意識を向けることはしない。

 だって、たとえば彼の眼がこの世の正しい銀河のような、深い夜の色をしていたとして、アプサントではなくその眸に溺れるほどの勇気はおれにはなかった。いくら夢の中であっても。

 おれは、アプサントの注がれた小さなグラスの、細くて折れそうな脚を指先で支え、期待に慄く唇を近づけていく。まるで待ち人との再会でも迎えるように高鳴る心臓は、本当はまさに、くちづけの期待に、正確に云うならくちづけの幻への期待に震えているのだ。

 青い鳥などというものは、もちろん、魔法としか呼べないほどに、ひどく莫迦げた幻を棲み処にしているに違いない。それはたとえば、アプサントが齎す酩酊であるだろう。さらに云うなら、酩酊の青い焔がゆらめきつくりだす、あのひとの深い夜のまなざしだとか、白濁した幻のなかの、やさしい呼び声やくちづけであるならもっとずっとちょうどよく莫迦げている。

 そして今、魔法に相応しく毒々しいほどにまばゆいアプサントのゆらめきを、いつまでも映すおれの眼は、先客がその夜色の眼を翳らせるのを、見ようとはしなかったが捉えてはいた。

 深い色の眼をした男の手のなかにある無骨な形のグラスにはまだ、金色のような、紅のような、ただ害のない飲料が半分ほど残っていて、それが、あまりにもありふれたノンアルコール・カクテル、【シャーリーテンプル】だとおれは気付く、が、そんなことが何だというのだ。

 先客が諦めたようにその目を伏せるのを尻目に、おれは自分の小さなグラスに唇をつけ、一息に、その盃を干した。
 これが青い鳥だかはどうでもいい、少なくとも青薔薇の火にくちづけて、オリオンに降ったペリドットの雨は今、おれの全身を満たさんとしている。

 そして夜色の眼をした男はというと、おれがアプサントを呑み干すのを見届けて、後を追うようにシャーリーテンプルを呑み干したけれども、彼の飲んだのは魔法ではないから、おれのように青い火の幻は見られない。おれのこの幻想は夢ですらないのだ。

 とはいえ、夢のなかで酩酊がみせる夢の夢であっても、紺青の天鵞絨のような、深いためいきのような、ただひとつの眼差しの気配にまやかしなどどこにもない。投げ込まれた幻想にあって、ただの夢と違うことなど、ただおれ自身の振る舞いくらいのものだとやがて気づいて嗤いたくなった。

 天に伸びるあの銀色の河を、渡って行きさえすればほんとうは、何一つ隔てるものなどないのだと、幻惑のなかでおれは信じているが、それのどこか虚なのだろう。同じ宇宙さえあるならシグナスはどこまでも翔けて瞳のなかに飛び込めると、アプサントの幻惑は云う、目覚めの世界でもそのうちに悟りそうなことだった。


 ところで、酩酊の外の世界では、第二の登場人物すなわち深い夜の眼差しを持つ先客が、アプサントの幻惑に沈み込んだおれを、今もそっと見つめていた。

 そのうち酔いが醒めるのを待ち構えるように、何杯目かのシャーリーテンプルの、あまり似合わないそのグラスを、彼はいつまでも手にしている――それがおれの夢に出てくるのだから、けっきょくのところ、もう何もかも始まりきった後なのだと、おれはとうに知っているのだろう。

(2013.6.20)




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