こんな夢をみた。
第72891夜水入り水晶 |
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私のほかに人影のない第五展示室の片隅。誰にも忘れ去られたような小さな展示ケースだった。
寂びれた博物館の、ともすれば見過ごしそうな場所に、直径10センチほどの水晶球はあった。板硝子は毀れたまま放置され、無造作に外気に晒された水晶球は、薄暗い室内にあってぼんやりと蒼白い光に包まれ、世界から浮かび上がっているように、私には見えた。
それは一見すると、ごくありふれた、あやしげな占術用の水晶玉にさえ見える。
罅も疵も曇りもひとつとしてみあたらない、その水晶自体もおそらく、十分に佳品ではあるのだろうが、水晶球は、その内部にとびきりの不思議を持っていた。
――この水晶球が内包するもの、それは、まさしく海だった。
水晶の内包物は多種多様で、中でも珍しいもののひとつに、「水入り水晶」というのがある。文字通り、何らかの要因で水晶の内部に水が閉じ込められたもので、たしかに、水晶球の中に水がある、その事実だけとってみれば、これも水入り水晶の一種と云えなくもない。
罅ひとつなく透きとおった水晶に護られたその「水」は、どんな魔法をかけられたのか、そこに、波濤を持っている。寄せては返す、白い砂浜にあるのをそのまま箱庭にした、ちいさな、けれども確かな、それは波であり海だった。
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私の故郷は内陸の地方だったが、それなりの年数を生きていれば、私だって海くらい行ったことはあった。両親に連れられて訪れた入り江や岬や砂浜、蒼や碧の海。記憶をたどれば、どれを取り出しても大して変わり映えのしない、この國に生まれれば誰でも大概は持っている類の、平凡な海の像がいくらも出てくる。
私はそのありふれた想い出たちと、水晶に籠められた海とを、重ね合わせ引き比べてみる。
青と青、波と波――しかし、水晶の海は、私のなかにあるどんな海とも重ならなかった。
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水晶の透明な隔たりの向こうで、青は私の知るどの海よりも淡い。
それでいて、どんなに明るい真昼の海よりも、ずっと多くの光を含んでいるようだった。
星砂の浜ではなく水晶球の透きとおった内壁に波が打ち寄せぶつかるたびに、飛沫よりもたくさんの光の粒が四方八方へ飛び散ってゆく。小さな海を囲う水晶は、内部の光線を微妙に屈折させ、みずからの持つ鉱石のきらめきを混ぜたうえで外界へとあふれさせる。
そのさまは、何世紀分も注がれた陽光と月光と星明りとをみな一つに詰め込んで、限りある光源が底をつくまで惜しげもなく放出しているかのよう。見る間に燃え尽きて消えてしまうのではないかと、危うささえ覚えさせる様だった。
これは、どこかフラスコの中の焔に似ている。レトルトの中の胎児ではなく。
透きとおった球体の中に在るのは、ただ海だけだ。浜辺もなく、天もなく、雲も鳥もいない場所で、青い海はただ波だけを寄せている。
――そこに星は廻るまい。
ここにある光はもしかすると、この海が水晶に閉じ込められる前、ずっとずっと昔の、遺物なのかもしれなかった。
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こどもの頃、両親に連れられて、南の半島へ旅行したことがある。
何のことはない海水浴で、べたつく潮風は膚に馴染まず、肺臓を埋める独特の臭気に胸が悪くなった。幼い私が気に入ったものといえば、たくさんのパラソル。赤や黄色のもよう。壜入りのラムネ・ソーダ。壜を割って取り出したビー玉。それから――あとは、そう、カモメ。
拾ってもらったカモメの羽根をひとつ、ポケットに入れて持ち帰った。
あれはまだ家のどこかにあるはずだ。
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球のなかの海は、水よりもずっと焔に似て、きっとカモメは棲めないだろう。
フラスコの中に閉じ込めた焔は、酸素が尽きれば消えてしまう。この海もきっと同じようなものだと、このうつくしさは断末魔にも似たものではないかと、私はそんな幻すら抱き始めていた。
魅入られたように、私は、水晶球へ手を伸ばす。触れてみたくてたまらなかったのだ。持ち上げたその水晶の海は、冷たく、すべらかで、思いのほか軽かった。私はその水晶球を、態と、床に取り落してみた。なにか奇跡らしいことが起こるのではないかと、図図しくも期待したのかもしれない。
落下した水晶は、板張りの床にぶつかってゴトンと大きな音を立て、少し私から遠ざかるように転がっていき、隣の展示ケースにあたって止まった。それだけだった。
硬度七の球体はこんなことで割れたりしない。内部の海にも嵐は起こらず、変わらぬ様子でおだやかな波濤をかさねている。私は、何かを拒絶されたような失望感とともに、水晶球を拾い上げ、もとの展示ケースにおさめた。
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奇跡を見せない水晶の波間には、ただ黄金のきらめきがある。
同時に、海は、蒼から碧までとりどりの色合をみせる緑柱石のような、ありとあらゆる青を湛えてもいた。うつくしさだけをあつめた海。私は、こんな海をしらない。だれが知っているというのだろう。
この海は果して誰のものか?
海には風がいる。かがやくには光がいる。
陽が昇り月が満ちて星の廻る、天穹を取り戻さねばならない。
唐突に降って湧いたはずの希求は、まるで、最初から胸に刻まれていたかのように自然だった。
――この海が夕焼けに染まり、空に一番星が昇るのを、いつかそのひとと見ることができたら。
ほかにはもう何もいらないと、いつか叶うその日を、もうずっとずっと昔から、長いこと待ち続けていたような気さえする。
今はただ独り、水晶に隔てられた海に見入ることしかできない。
それがひどくもどかしくて、じきに涙さえ溢れてきそうだった。