第一章 金釦の狼
ぼくをおびやかす夜の女王はいつも真っ黒い外套を着ている。袷のところにたくさん並ぶ小さなボタンは金色で、その一つ一つがにやりとまたたくさまは、狼の眼がぎらつくのにそっくりだ。見えない狼の嘲笑は走っても走っても追ってくる。背を向けて逃げても女王の金釦はかならずぼくの前でちらちら光るのだ。立ち止まり、後ずさると、足の下に滑らかな毛並みを感じ、ぼくは女王の長く引き摺った外套の裾を踏んでしまったことに気付く。女王は咎めない。金釦をいくつかはずして、外套の中に招くだけだ。そうするとぼくは外套のうちがわへ取り込まれたようになってしまう。女王は外套の中のぼくを撫ぜながら、いつも同じ歌を同じ抑揚で歌う。音という音に口をつぐませ、鼓動さえ黙らせるその歌は、耳を塞いでもその無音の中でこそ高らかに響いた。
第二章 藍から白まで
女王がぼくを外套から出してくれるころには、体じゅうがすっかりこわばってしまう。立ち上がるのも億劫で、ぼくは寝転がって女王の去った空を見る。藍染めの庭に菫が咲き、やがて曙の橙が実ると、またたく間に海がさざめきはじめる。溺れるくらいに青い波だ。波間をもがいているうちに体のこわばりが解けるので、ぼくは白い砂浜に立ちあがる。そこで桜色の貝殻を拾い、耳に押し当てて波音を聞き、それを離すとまわりを見渡して考え込む。何を聞けばいいのかわからないので、とりあえず耳を澄ますと鳥の声がする。ぴちち、と何を呼ぶのだろうと緑のほうを振り向いて、ぼくは歩き出す。砂が土に変わり、海のかわりに草が波打ち、綿毛がふわりと舞い上がる。ぼくの髪もさらさらなびき、ぼくはぼくを見つけるけれど、風の王はいつも気配だけですべてを支配する。
第三章 硬度7の扉
風に揺れる藤の花房の下をくぐると、石畳の道に出る。硬くて熱い地面の上も、ぼくの足は革の靴を履いているので、駆けることができる。十字路、丁字路、分岐のたびに道標を確かめて、立ち止まっては、また走り出す。途中、道沿いに石榴の木を見つけて、一つもぎとって齧り付く。甘酸っぱく紅い宝玉を、もう一つ捥ぐ。ズボンのポケットに入れるとまた走り出す。銀杏並木、ポプラ並木、薔薇の垣根に躑躅の生垣。人の気配が濃くなって、振り切るようにぼくは走る。たくさんの扉と窓がぼくに向かって開かれ、あるいは閉じられている。何度か角を曲がると、同じドアが何度も現れたり、ときには目の前に立ちふさがったりする。けれど、ぼくはどの戸も開けない。どこかなにかのうちがわに入るのは、女王の外套にとびこむようだから。
第四章 棘付硝子
空に包まれたこの地上で、外側など永遠に見つからないのだろう。王と女王の群れはぼくを何重にも取り囲む。入れ替わり立ち代わりぼくの眼を塞いでは姿を消し、また表れるのだ。ドアの袋小路に包囲されてぼくはそんなことを考えた。気がつけば背後にも窓が迫っている。開かれるため、侵入されるため、あるいは鍵穴を覗くための扉の群れは、硝子の瞳の人形だった。天に吊られ、座り込み、ぼくが選ぶのを待つ。精巧な関節を晒した裸の人形たちは、金の髪と睫を煌めかした。ぼくの眼はその棘に耐えられない。後ろに倒れこむように天を仰ぐと、空の天辺に太陽が燃えている。眩んで目を閉じると、自分の身体が重すぎた。夜の女王が恋しくさえある。倒れこむ肉体を押し返す地面のことも忘れ、世界は赤く盲目だった。そこに、ちゃりん、と金属片が堕ち、何かが開く。
第五章 中二階にて
ぼくはまた新しい裡側にいた。寝台の上、シーツとブランケットの狭間である。そこで目を閉じてじっとしている。裸の手足をリネン以外に触れさせたくなかった。しかし音が触れてくる。空気の振動が、ぼくの耳を否応なく震わせる。何者かの靴音。重く硬い踵が堂々たる歩調で階層と階層の境に立つ。その何者かは殖えることなく正しい手順で扉を叩いた。ここには扉があるらしい。隔てられ、しかし空気は通じている。ぼくは自分が呼吸していることを知った。肺に大気が送り込まれ、唇と唇の間から漏れた息が、ブランケットに沁みている。吐息に溺れるような心地がして、瞼を押し上げた。扉を叩く音はいよいよ激しさを増す。寝台の上で身を起こし、扉を見やる。木製のドアで、向こう側は見えない。鍵はかかっていないようだ。あれは侵入者ではない。ただぼくを呼んでいる。
第六章 声を呼ぶ笛
扉の取ッ手に手をかけたところで、轟轟と唸る獣の牙を感じた。身体に纏わりつく狼の気配を、振り払えず、開くのを躊躇う。扉を叩くのは女王だろうか。高い靴音は女王の銀の靴だろうか。硬く目を瞑り、ぼくは震える。轟轟と鳴る音が大きくなって、叫びだしたくなった。なのに声を出すのが怖くて、ドアを叩く。コン、とあたりまえな音が耳に届き、そのあとでもういちど、コン、と鈍く響いた。扉の向こうでぼくをよぶ何者か。応えるように。狼の気配は、音に吸い込まれるように溶け去った。顔の見えない誰か。ぼくを呼ぶもの。ぼくに応えるもの。轟轟と唸る獣はぼくの血だ。そして君の。ねえだれかさん。血の気配は体温だ。戸を叩く音が止む。代わりに別の音がした。声、というもの。だれかさんの喉と舌と唇が、生々しく慕わしい。視覚と触覚が恋しくて、隔てる扉がもどかしい。
第七章 次の北極星
焦燥に駆られるうち、喉から何かが零れ落ちた。それは銃声に似ていた。風穴が開いたのはぼくの側にある、天井でも屋根でもない、高い高い天辺の場所だった。ぼくを匿う世界が死んでいく。かわりに、君の世界が流れ込んでくるのを感じる。爆風。全ての影を灼きつくすようでいて、灼きつけるようでもある。渦巻く過去たちの向こうに、やっと君の影が見えた。撃ち抜く銃弾は君の名で、引き金はぼくの名。眩むのを耐えて、瞬きできない眼から海が漏れ落ちる。君はゆっくりと手を差し伸べ、それはまるで魔術めいた仕草だった。識らないうちにぼくの喉はもういちど何かを零し、君は頷く。ゆるゆると過去たちは力を失い、黒い土の中に吸い込まれた。君は祝福したのか、呪ったのか、分からないけれども魔法は完成されようとしている。ぼくは何かを、君と引き換えたのだろう。
第八章 夜の外で
王と女王は死に絶え、世界にはぼくと君とが残る。ぼくがそう言うと君は違うと言った。過去は滅びることは無い、あるべき場所に仕舞われたのだ、と。だとすれば僕はいつかそれを取り出すのだろうか。あるべき場所というのはどこなのだろうか。君はその問いには答えずに、僕の手首をつかんだ。強すぎる力に血が止まりそうな気がして、だから血の巡るのを感じた。君は怒っているようだった。早足で歩くうち、ぎゅうぎゅうと、いつの間にか指を絡めあっていた。隣で、君はぼくを導いてゆく。


やがてぼくは君と共に朝の門を抜け、目覚めの世界に還る。
エピローグ
探したんだぞ。お前が夜なんかに包まっているからなかなか見つからなかったじゃないか。本当ならお前のほうで俺を探したっていいくらいなのに。まったく、どうせなら最初から俺と遊んでりゃ、適当なところで連れ帰ってやるのに、お前ときたらひとりで閉じこもりたがるんだからな。やたら細かいところまで作りこむせいで、魔法の段取りも細かくなる。鍵を落としてやって扉を誘って、そこをノックして。お前そういうとこだけ無駄にちゃんとしてるから蹴破るわけにも行かない。これでお前が答えなかったらどんなにややこしいことになったことか!今回はぎりぎりで俺の名を呼んだから一応許してやるけど、怒ってないわけじゃないからな。分かったら二度と面倒なところに閉じこもるなよ。どうせ引きずり出されるんだから、どうしてもって言うならそこで俺と遊んでりゃいいんだ!