質問の答えは決まっていた。

彼の祖国といったら、この国を掠め取った張本人だ。改革派を援助して影響力を深めつつ、別の国が入れ知恵する守旧派と争わせて、代理戦争までやらせた世界随一の帝国。戦争の末に生まれた新政府は始めから彼らの帝国の傀儡で、この国が正式に滅亡するのは、もはや時間の問題でしかないと、誰もが知っている。

彼も私もそれは当然わかっていて、だからこそ彼は、そんな馬鹿なことを尋ねるのだ。

「冗談じゃありません。」

そう叫んで彼の傲慢な面を張ってやろうと、私は座布団から腰を浮かして手を振り上げた。けれども、こみ上げる怒りのままに彼をきつく睨みすえ、平手を張ろうとしたとたん、私は彼の頬に触れもしないまま動きを止めた。睨みつけた視線の先に、傲慢さなどひとかけらも見当たらなかったのだ。苦渋に満ちたまなざしは、私の怒りなどよりはるかに深く沈み込んで、私をまっすぐに見つめていた。

私が振り上げた手を下ろして座りなおすのを、彼は驚きもせずただ静かに見守っていた。彼の苦渋の深さを目の当たりにするのは怖くて、私は唇をかんで、彼のシャツの襟元を見つめていた。隙無く着込んだ彼の国の正装は随分と息苦しそうだ、もっと襟元を緩めればいいのに。私は行き場のなくなった手で着物の袖を握り締めながら、そんなつまらないことを吐き捨てた。

「殴ってくれていい。だが俺は、殴るくらいで許してもらえるなら、無理やりにでも国に連れ去りたいと思ってる。」

彼は上着を脱ごうとはせずに言った。彼の膚に視線をやったら、きっと額に汗が滲んでいるのが見えるのだろうけれど、私にはできなかった。真っ白で硬そうな襟元や、上着の滑らかな生地、不器用に膝を立てた座り方、自分の着物の木綿地、長いこと替えていない傷んだ畳、そんなものばかりを順番に見た。そのあいだもきっと、彼は私から苦しげなまなざしを逸らしはしないのだと、確信している自分が許せなかった。

「分かっているんだろう?この国はじきに滅びる。致命傷はすでに与えられた、いくらあがいてももう助からない。俺が言える台詞じゃないのは分かってるけど、お前をこの国の死の巻き添えにしたくないんだ。この先、ろくなことが起こらないと分かってるのに、お前を置いて行けるわけがない。」

彼はこの国を葬り去ろうとする側の人間だというのに、彼の声音は徳の高い坊主か何かのように真摯だった。哀れな者の嘆きに心を痛めながら耳を傾け、神の教えを懸命に説いて懸命に絶望から救おうとする、まるで葬式の一場面だ。自分が喪失に傷ついた遺族の役なのだと思うと嗤い出しそうだった。しかも彼は、自分が救済者を演ずる皮肉を知っていて言うのだ。私は自嘲しつつ、ゆるゆると頸を振った。

「あなたは誤解しておられる。私は蘇生させようとしているわけではありません。この国は、すでに死んでいるのですから。私はただ留まって、この小さいけれど古い国にふさわしいだけの供養をしてやりたいだけです。」

しかし、私の言葉の冷めた響きは彼を失望させはしなかった。彼は、すこし微笑さえした。聖職者ごっこですか?一体なに笑ってるんです――言ってやろうとして、できない。どうしてかなんて知っているからだ。私が正直に何か話せば彼は何だって喜ぶ用意がある。なぜならこの人は、実に馬鹿馬鹿しいことに、私なんぞに懸想している。私だって今、彼の表情を窺い、微笑まれたのを確かめたのだから、全く救いようがない。

「祖国から離れがたいのは分かる。しかし、供養をしたいというんじゃ、まるで一生喪服を着て生きるかのような言い草じゃないか。それではとても承服できない。」

無理やりにでも連れ去りたいと言ったくせに、私を説得しようとしている彼が可笑しくて、私は笑ったつもりだった。けれど、かすかに漏れた声ははっとするほど頼りなく響いた。しくじった、と思わず彼の反応を窺うと、嫌になるほど真摯に、気遣わしげに、それを隠そうともせずに、私は見守られていた。彼はたぶん、皮肉とか矛盾とか私が私を許せないとか、そんなことは些事と決めてしまったのだ。彼にとって大事なことはもうすっかり決まっている。

「だったら、言い方を変えましょう。」
私はできるだけ苛ついた口調を作って言った。
「いいですか、あなたにはよくあるちっぽけな死骸にしか見えなくても、ここは私の国なんです。だから、どんなに無意味で不幸でも、私は亡国を引きずっていたい。世情がどうなろうと、あなたがどう思おうと関係ありません。一生喪服を着て生きるとしてもそれはそれで一つの幸せです、誰にも文句は言わせません。」

睨みすえながら冷たく言ってやったのに、彼は安堵したように小さく微笑み、「そうか」とだけ呟いた。私のきつい視線をやわらかに受け止めている碧の眼があたたかくうつくしく見えて、私は耐え切れず、途方にくれたような気持ちで俯いた。とても見ていられない。

彼は、この期に及んで喜んでいるのだ。私がちゃんと言いたいことを言ったからって、安心している。拒絶したのに失望のかけらも見せてくれない。

こんな馬鹿なやつ相手に、どうすればいいか分からなかった。私なんかに懸想している馬鹿は許せない。腹立たしい。だけれども、さっきまで自分が顔を上げていた理由を私は知っていた。期待通りに碧の眼がほころぶのを見たかったからだ。でもそんなのは駄目だから繕うために睨んでいた。どうやらここには馬鹿しかいない。しかも私は馬鹿の癖にずるいやつだ。

ゆるせない、はらだたしい、と頭のなかで繰り返しているうちに目許が熱くなってきて、着物の袂で乱暴にぬぐった。すると掌に絹の――なんといったっけ――ハンカチというやつを握らされた。頬に当ててみたそれは真っ白で、滑らかで、高級な感じがした。たぶん我々にはよくわからない立派な機械で作られたんだろう。むしゃくしゃして床に投げ捨ててやったけれど、畳敷きの部屋じゃ汚れもしない。腹立たしくて声を上げたら嗚咽が漏れて、彼の腕に引き寄せられた。

上等そうな毛織物の上着に顔をうずめて、涙でぐしゃぐしゃにする。「ちくしょう」なんて独り言にも、彼は何も言わないで、私を黙って抱きしめていた。あいかわらず彼はあたたかくて、ふんわりといいにおいがした。

――香水の壜を見せてもらったのはいつだったろう。
たしかまだこの国が生きながらえるすべを探して奔走していた頃だった。見たこともない細やかな硝子細工に見とれて、こんなすごい技術がいくらでもあるという彼の祖国に、焦燥は募ったけれど憧れた。憧れているのも、ほんとうのことだった。

そんなことを思いだしてしまうと、また涙が零れてきて、私は彼の背中にしがみついた。すると腕のちからがきゅっと強くなり、私はこの馬鹿みたいな幸福を隠すのは諦めた。

彼は黙って私の背を撫でていたけれど、しばらくして口を開いた。私が落ち着くのを待っていただけじゃなく、彼は少し迷っていたのかもしれない。

「亡くした国を悼んで生きる、それだけがお前の幸せだというなら、俺は何も言えない。でもお前はそうは言わなかった。だから、言わせてくれ。」

そっと体を離されて、それでもゆるく抱いたまま、彼の碧い眼が私の瞳を覗き込んだ。微笑を消した彼は相変わらず苦しげで、迷っていて、そのくせ私の卑怯で曖昧な言葉を決して読み誤ったりしない。上っ面の言葉で理解されるのは許せないくせに、それでも解って欲しいという甘えを、正しく叶えてくれる。彼の祖国と同じくらい恐ろしいひとだ。

「この国を出て、俺と一緒に来た先にも、もっと穏やかな幸せがきっとある。だからどうか、滅んでゆく祖国より、俺と生きることを選んで欲しい。」

私は、黙って彼から眼を逸らした。碧色のまなざしがあまりにも鮮やかで、受け止めるのがつらかった。俯いて、黙り込んで、それでも私は彼の腕の中から逃げ出そうとはしないのだし、冗談じゃないと一蹴することもどうせできない。

「どうか、私に選ばせないで。」

結局、私が私を許せるぎりぎりのこたえは、いつもこうして曖昧で卑怯な言葉になる。

「今は、問わずに攫ってください。」

言い終えると、私はなんとか顔をあげて彼を見上げた。すると彼は苦しげだった目許をふと緩め、穏やかに私を見つめた。私は、ぜんぶ彼のせいにしたいだなんて酷いことを言っているのに、彼はほっとしたように微笑さえしていた。馬鹿みたいな幸福感がどうしようもなく胸を満たして眼を逸らしたくなったけれど、そこまで甘ったれたくはなかったから半分睨むように彼を見返した。

彼は私の視線を苦笑交じりに受け止めて、私が無理に顔を上げていなくていいように抱き寄せてくれた。どうしてこうなんだろう。彼はすべてを正しく理解して、私を甘やかしてしまう。私なんかに懸想している馬鹿なやつなのに、「一つの幸せ」なんて曖昧さに騙されてはくれない。さいしょ殴りつけようとしたそのときだって、問うてくれたことが幸せだった。私はもういちど、彼の上着に顔をうずめる。

「ごめんなさい。」
「どうして謝るんだ。連れ去りたいって言っただろう?」

搾り出すような声で謝罪したけれど、彼はややこしい話はおしまいだとばかりに、笑い混じりの軽やかな声音を作ってそう言った。それはほんとうに出会った頃からのいつもどおりの響きで、私は何も言えなくなった。それでも、最後に一言だけは、悪あがきみたいに呟かずにはいられなかった。

「……わかってくれなくてよかったのに。」

彼が一つでも読み違えたら、私はきっと国に帰る彼の背中を見送っていた。
それも当然解っている彼は、腕の力を強くしただけで何も言わなかった。

私は彼が国で約束された未来を奪うだろう。彼が私の祖国を奪うのと同じように。だから、私からは言えなかった。問われても頷けるわけがなかった。 彼は解っていて、それでも言ってくれた。私に言わないわがままを許してくれた。嬉しくて、申し訳なくて、私はまた熱くなった目許を、彼の胸に押し付ける。

一緒に行こうと言うことは、諦めろと告げるようなものだった。