#3

ジューベールはその日のうちに帰っていった。長いことあっていない友人の娘に会うため、こんな遠くの町へ来たというのにあまりにも呆気ない。まるで幻を見たようだった。
夜更けから嵐になり、わたしは寝台の中で風の吹き荒れる音を聞いた。窓の外のざわめきと、自分の心のうちが反響しあって落ち着かない。風はどこか悲鳴に似ている。あるいは呪文。夜が星星を燃やす。厚い雲の裏側では、星星が燃えているのだろうか。炎の色は何色だろうか。
――真っ黒い嵐の夜を突き抜けてゆけば、藍色に晴れた空と、金銀に輝く星があるのだと、教えてくれたのは父だった。
そう、父は夜空が好きだった。星星よりも、澄んだ藍色の空そのものを愛していた。しかし、母はそれをよく分かっていなかったようだ。母は月や星が好きだったのだ。とりわけ満月が好きだった。それから、ベガ。シリウス。明けの明星。もっと言うなら、夜空よりも青空が好きだったのだろう。それはもしかしたら父の目が青かったからかもしれないけれど。
――そういえばジューベールの眼は深い藍だった。澄んだ夜空のような深い蒼。父は夜空が好きだった、と彼は知っていただろうか。
わたしの眼は母譲りの碧で、わたしは父のような青でなくてよかったと思っている。父の青は青空に似ていたけれど、空よりも冷たい色だった。透明すぎて魚の住めない湖のような感じがして、わたしは幼いころ、父の眼をまっすぐに見られなかった。
あれは、遠くを見るのに似合う眼だ。娘や妻なんかを通り過ぎて、あの青い眼は遥かな何者かを見つめていた。そんな気がしてならない。
ジューベールは、いったいわたしが父の何を継いだというのだろう。炎色とはなんのことだ。わたしも父も炎のようだとそう言いたいのだろうか?
――炎は燃える。星星も。
夜が燃やす。まるで謎かけではないか。解いたところで、正解を教えてくれる人もいないのに。

青い火は熱い。
青よりもなお熱いのは白。白は神殿の色。
でも藍色は炎には似合わない。星を燃やす夜の色だから。



わたしはその夜不思議な夢を見た。





#4

「ああ……ここは。」
「これはね、古い魔法です。私と彼が当たり前のように、すぐ近くにいたころの。」
「古いって、それではほんの数十年前だと仰るんですか。この神殿は、千数百年前のものだと聞きました。」
「ええそうです。千と何百年の昔に、あの子が残した魔法です。風に薄まって近頃は大分と弱くなっていましたが、もう大丈夫です。」
彼はそう言って、懐から万年筆を取り出した。白い床にしゃがみこむと、石の上に文字を書き始める。万年筆にはインクが入っていない様子なのに、どういうわけか、白い石に赤い筆致が流れ出す。何を書いているのか読もうとして、気付いた。これは、忘れられた文字だ。
「もうほとんど諦めかけていたのに、まさか魔法を甦らせることが出来るなんて。」
彼はそんなことを呟きながら、神殿の床に赤い文字を巡らせる。もともと刻まれていたものと重なり合い、繊細で複雑な模様を作り上げていた。彼の手が近づくと、ひび割れていた石がすべすべした輝きを取り戻し、崩れかけた柱の破片が、もとあった場所へと還って行く。翼のある獣と火を吐く蜥蜴の周りを短いセンテンスの繰り返しでぐるりと囲ったかと思うと、長い長い文章が三日月の頂点まで伸びる。三日月の周りに刻まれたのは、おそらく二つの単語だった。
立ち上がった彼は白い床に描いた文字と文字によって成る図形をひととおり見渡し、万年筆を懐にしまう。そしてもう一度床に膝をつくと、三日月の零す滴を、彼はいとおしげに撫でた。ただの凹凸であったはずの滴はいつのまにか蒼みを帯びて、濡れたように煌く。
「この滴はね、涙なんです。涙を作っている文字は呪文。」
「呪文……これが、ですか。まさか。」
「ああ、彼に聞いておられましたか。」
「ええ。でもまさか、呪文のはずがありません。」
「唱えてごらんなさい。そうすれば全てがわかります」
彼はそう言って愛しむように微笑み、そっと目を閉じた。魔法に身をゆだねるような仕草だった。夜と星とが彼ともうひとりを微笑ませるのだろう。
わたしは抗えない。
呪文が零れる。
滴も零れた。




「夜が、星星を燃やす。」