#8 宙返りして虫入り琥珀
はじめは紅茶の海やコーヒーの沼も見るつもりだったのですが、もう乳の川だけで胸がいっぱいになってしまって、ドロシーは《黒猫屋》に戻ってタートを食べることにしました。
立ち上がって川辺から離れようとしましたが、ドロシーは帰り方をしりませんでした。
(またページをめくればいいのかしら。乳の川からタート一切れは、うんと遠いような感じがするわね。)
ドロシーはためいきをつきました。そんなにたくさんのページをめくるのは、まだむずかしかったからです。
(困ったわ。さっきの近道はどこかへ消えてしまったし……。)
ドロシーはもういちどためいきをつきました。
すると突然、鳥のはばたく音が静かな川辺にひびきました。乳をくむひとびとも、おどろいて上を見上げています。見れば、ドロシーの頭上高くにあの赤い鳥がひばりのように旋回しています。
「わたしのトランクだわ!アゾート、来てくれたのね。」
ドロシーはおもわず声をあげてしまいました。大きな声をあげたドロシーに、ひとびとは人差し指をくちびるにあてて合図してみせます。ドロシーは、「ごめんなさい」と言いかけてあわてて口を閉じ、頭をさげました。
顔をあげると、赤い鳥がらせんをえがいて下りてくるのが見えました。口になにかくわえています。
(なにか、赤いものね。そんなに大きくはないみたい。)
赤い鳥が赤いものをくわえているので、さっきまではわからなかったのです。だんだん近づいてくるにつれて、はっきりと見えてきました。
(まるい……いいえ、ハートのかたち……つぶつぶして……つやつやひかって……なにかの木の実かしら?)
それがなにかわかったしゅんかん、赤い鳥はくわえていたものをはなしました。それは落下傘でもつけているようにゆっくり落ちてきて、ドロシーがさしだしたてのひらの中に着地しました。
(いちごだわ。ハート形のいちごね。)
手にとってよく見ると、小さないちごに、もっとちいさなタグがついています。美しい大文字の、どこかでみたような文面にしたがってドロシーがいちごを口に入れてかんでみると、とてもおいしくてあまずっぱい味がしました。
(においは野茨。味は、れんげの花蜜と、薄荷ドロップと、たまごボーロと、黒砂糖と、そして熱いアップル・パイが混ぜ合わさったみたい。)
ふしぎですてきな味のいちごをのみこんだとたん、どういうわけか、とつぜん、見ていたはずの空が砂になって、砂だったはずのところが空になっていました。きょろきょろまわりを見たかったのですが、じぶんのからだがとても遠くにある感じがして、上手に首を動かせません。
(まあ、なあにこれ!星砂と乳と夜空がまざって、ぼやけた青い電燈みたいに見えるわ。)
ただ、頭の中だけはくっきりしていたので、ドロシーは回りながらいろいろなことを考えることが出来ました。
(天地がまざって回っているということは、回転木馬みたいにじゃなく、風車のようにまわっているということね。)
回転はだんだんはやくなって、青い電燈みたいだったけしきも、もっとぼやけて、とろとろにとけたダイアモンドみたいに透きとおってきらめいています。
(まわっているのは外なのかしら。それとも、わたしのほうかしら。)
ダイアモンドのかがやきも、まわりすぎて、透きとおらなくなってきました。菜の花よりも蝋燭に似た黄色が混ざってきます。
(たぶん、わたしね。いちごを食べたのはわたしだから。)
黄色はだんだんと光沢を持ち始めて、すこしずつねばりけもくわわり、蜂蜜のようにどろっとしました。蜜のとろみのせいか、回転の加速も鈍くなってきます。
(わたしがまわっているとしたら、それはつまり宙返りということね。)
ドロシーは、ほんとうは宙返りができないはずでしたが、アゾートのいちごのおかげで、このときだけくるくる回っていられたのです。
(蜂蜜のなかに、ちょうちょがいるわ。ひらひら飛んでいる。)
ドロシーは、いつだったか鏡の塔の女王さまが書き物机からとりだして見せてくださった、虫入り琥珀を思い出していました。回転がゆっくりになったので、どろっとした金色のけしきのなかを飛ぶ揚羽蝶の触覚まではっきり見えたのです。
(揚羽蝶の色って、黒猫に似ているのね。はじめて気が付いたわ。)
びろうどのような黒に、トパアズのような黄色、いいえ、金でしょうか。これは黒猫の毛並みと眼のいろとおんなじだと、ドロシーがそう思ったからかどうかは分かりませんが、揚羽蝶の黒は緞帳をおろすようにすとんとひろがり、金色はきゅうんと結晶し、やがて、一匹の黒猫になりました。
「にゃあ!」
かわいいかおのちいさな黒猫が一声鳴いたのを合図に、ドロシーの回転はぴたりととまりました。
するとそこはもう、乳の川でもコースターのお庭でもない、《黒猫屋》の円テーブルなのでした。