(博士、あなたはお月様なんでしょう。だったら、あの、窓の外に浮かんでいるあれは何です?)

―― こんにちは。駱駝さん。
見上げれば、青い唐草模様のついた白いせとものの写真立てのなか、
たしかにりっぱなこぶを二つも持った駱駝さんが絵葉書のなかで笑っている。
―― ああこんにちは、小鳥くん。

(あれはブリキ製の贋物。このお月様は、おもちゃの身代わりを浮かべてサボっているのさ。)




#666 フタコブラクダ・ライド



 フタコブラクダの背中には大きな円錐形の塔があって、ぼくはそのなかにいる。
 なかといっても、塔のいちばん下の階層の、ほとんど外と言っていい、塔本体から張り出した玄関ポーチみたいなところだ。ポーチには、円卓がまるでひとりでに生えているような風を醸しつつ置かれている。
 そしてどういうわけか黒猫の偽者になったぼくはその上に座っている。円卓の真ん中に、置物になったような気分で、上下に大きく揺れるフタコブラクダ・ライドに耐えながら、どこまでも続いているかに見える砂と砂と砂ばかりの世界を眺めていた。ちなみに、ポーチの正面がラクダの進行方向に当たり、ぼくからはラクダの後ろ頭が見えている。

 ここで、砂以外にあるものと言えば、天くらいのものだ。星も月もある天が、ここではいちばん色彩が豊かと言っていいかもしれない。なんせ、塔はポーチを含めて白一色、ラクダは当然に駱駝色、砂は砂の色。しかもラクダと砂は大して色が違わず、地上はそれっきり何の色も見当たらない。白と砂と駱駝。ついでに言うとぼくは黒猫なのでそこに黒が加わる。
 なんにせよ、つまらないことこの上ない。もしかして、ぼくの目が青かったり緑だったりするかもしれないと期待してはみるけれども、ここには鏡がなく水面すらないので、ぼくはぼくを見ることができなかった。

 色数の少ない地上に対し、天には実に色とりどりの星星が填められているので、ぼくはさっきから天ばかり見上げている。
 金と銀の双子座、黄水晶とエメラルドの二重星、けぶる紅薔薇の星雲。そして、もちろん、銀色にかがやく三日月が天の頂にさしかかろうとしていた。もう少ししたら、塔の先端にちょうど架かるだろう。
 ぼくは円卓の上にごろんと横になった。座ったまま天頂を見ているのでは、頸が痛くなりそうだからだ。円卓はぼくが四肢をいっぱいに伸ばしても、縁にあたらない程度には大きいようだ。

 地上の味気なさと引き換えたように、砂漠の天はたいそう美しい。世界中から集めた色々の鉱石を縫いとめた、とびっきりの天鵞絨製だが、残念ながら、古ぼけた紺色の天鵞絨はところどころ綻びてもいた。ほつれた裂け目から、ざわざわと生々しい暗闇が見え隠れし、二等星以下は罅割れが目立つ。もともとの硬度が低い上に、このご時世では、罅修復の予算もつかないのだろう。それでもこうして美しいと思えるのは、地上がつまらなすぎるせいと、おそらく元は一級の品だからだろう。

 とはいえ、骨董品にも、実用品にもなりきれない、中途半端に古臭いプラネタリウムだということは確かだ。さらに、完璧に磨き上げられた白磁の塔が、天球の粗を目立たせている。天河のなかでは輝かしかった銀メッキの三日月も、つやつやときらめく白鳥のような塔に近づくにつれ、刻一刻とみすぼらしくなってゆく。メッキは剥げかかり、明らかに修復が必要なレヴェルで傷んでいることが、月だけ見ていると分からないが、塔と較べれば、ぼくの眼でもよくわかった。

 この天の持ち主は、いったい何を考えているんだろう。ラクダや塔なんかより、天球に、せめて月くらいには、もっと予算を回せばいいだろうに。星は数えきれないし、月も28種じゃ多すぎて手が回らないのだとしても、普通は、三日月と満月、その2種くらい見栄を張ってぴかぴかにしておくものだ。
 三日月は薔薇の棘のように鋭く、満月は海がくっきりと見えるように――、そう言い聞かされるものじゃないか、ふつう。

 そこで、ぼくは、ちょっと行って月くらい塗り直してあげようかしら、と思いついた。
 塔のなかに階段があって、ちょうどいまなら、上っていって天辺から手を伸ばせば、三日月に降りるのはかんたんだと知っていたからだ。寝転がっている円卓から飛び降りて、円卓をちょっと回りさえすればいい。そうすれば、すぐに階段室に続く扉がある。うんと背伸びして前肢でノブを回して中に入ったら、プラチナ色の螺旋階段が、くるくると天まで昇っているだろう。
 フタコブラクダの機嫌取りに失敗さえしなければ、ちょっと体をゆすってもらって、あっというまに頂上にいくことだってできるだろう。とってもかんたんなこと。塔の最上階なら、銀メッキでも金メッキでも材料に困るわけがない。なんせフタコブラクダだったから、アゾートの蓄えはたっぷりあるに違いないのだ。

 よしそうしよう。ぼくは、すっかりその気になって、円卓の上で身体を起こした。起こしただけで倒れそうになる。ラクダの上下動の大きさはなんとかならないものだろうか、なんて考えつつ、ふらりと転びそうになりながらも、円卓の上に前肢をついて、ふらつきながらも立ち上がりかけた。
 そのときだ。ぼくは円卓の上から転がり落ちる羽目になった。
 これまで休みなく一定のペースで歩みを続けていたフタコブラクダが、突然に、なんの前ぶれもなく、急に立ち止まったのだ。

 転がり落ちたと言っても、砂の上のこと、どこも痛くはなかったし、それどころか、ぼくは華麗に着地を決めていたのが幸い。なんの構えもなく円卓から、ひいては駱駝の背からぽろりとこぼれ落ちたから、砂丘の上に何事もなかったかのように立っている自分に気付くというのは、おかしな心地がした。黒猫なんだからこれくらいのことは当たり前かもしれないけれど、ぼくは自分が猫でいることに慣れているわけじゃない。

 とりあえず、もう一度背にのせてもらおう、ぼくは、遥か頭上のラクダの顔を見上げる。
 ラクダは、ぼくのほうなど見向きもせず、鼻や耳をひくひくと動かして何かを警戒する態勢をとっていた。砂漠中を見渡したラクダは、メエと一声鳴いたかと思うと、止まった時と同じく急に駆け出してしまう。
 遠くに行かれたらどうしようかと焦ったけれど、すぐにぴたりと立ち止まり、なんでもなさそうな場所でなぜか迷わず身を屈めた。よくわからないけど、屈んでくれたなら、背に上るにはちょうどいい。
 この隙に乗せてもらおうと、ラクダのそばに駆け寄って、ぼくは驚いた。
 人影がある。誰かがいるのだ。

 人影は、砂丘の影から、まるでちょっとした薄絹をはらうように、ごくさりげない仕草で、唐突に出現していた。
 どうやら、完璧に見えた砂丘の影にも、実は天球の天鵞絨と同様に綻びがあるようで、そのひとはあろうことか、ほつれの隙間をくぐって、この世界の中でも、こんなものすごく半端な場所に、こんなに突然に現れ出たものらしい。
 その登場の仕方からしたら考えられないけれども、出現した彼には不自然なところはまるでなく、ぼくなどよりもずっと正統なお客であるかのごとく、ラクダは実に慇懃に身を屈めている。
 ラクダはどうやら、背中の塔に、新しい客を乗せるために立ち止まったものらしかった。

 ぼくがたまげているのを気にも留めない様子で、砂除けのフードを目深にかぶった誰かは、フタコブラクダの背に手をかけた。
 声をかけようとすると、その人は、ぼくの一挙一動を把握しているように、ごく自然と動作を止め、ぼくのほうをまっすぐに見、口許に微笑みをうかべて、ぼくを制した。

 “黙って”というだけの身振りではない。
 “しばらくそこで待っていて”―― ほんのちょっと片方の手を動かしただけだったけれども、そういう意味だということは、ことばがなくてもなんとなくわかって、ぼくは素直にたちどまり、突然あらわれた誰かを見守った。
 彼の行動を妨げないことが、この世界では自然なかんじがしたのだ。
 もういちどぼくを見た彼は、“それでいい”、というふうに頷くと、軽やかに、ラクダの背に上り、円卓には目もくれずポーチを通り過ぎ、すぐに階段室に入っていった。

 新しい客の背中が塔の中に消えると、ラクダはすっくと立ち上がり、その数秒後、彼のすがたは塔の天辺から現れた。
 塔の尖った先に立って、三日月に手をのばしている。三日月の実寸は塔の最下層からみたときの印象よりもずっと小さくて、彼の顔より一回り大きな程度でしかない。意外なことだ。ふつうの月は、人が降り立てるくらいは大きいものなのに。この天の持ち主は思った以上に変り者らしい。星は罅割れだらけ、月はメッキが剥げかけなだけじゃなく、そもそもがこんなに小さいなんて。

 でもきっと、ああして手を伸ばしているからには、彼は月の修復に来たにちがいない。三日月の銀メッキを塗り直すつもりなんだろう。と、思いきや、彼は、一流の職人のような身のこなしとは裏腹に、ごく乱暴な手つきで小さな三日月に手をかけた。
 その衝撃で、剥がれたメッキの銀がぱらぱらと降り注ぎ、ちょっとした流星雨みたいにきらめいた。
 しかし彼はそんなことにはまったく構わずに、まるで子どもがおもちゃのブーメランでも持つような手つきで、三日月の細くなった部分を右手でむんずと掴み、塔の内側に引きずり込んだ。
 塔の中で、塗り直しの作業をするのだろうか。
 でも、そういえば、塔に入れてしまった月をもういちど浮かべるには、絡まったピアノ線を解いて、張り替えまでしなくちゃいけないと聞く。それはもう、大変な手間だというけれど。彼は、どうするつもりなんだろう。

 地上のぼくが砂丘の影で頸をかしげたとたん、プツンという音が聴こえた。
 月を天球に吊り下げていたピアノ線を切った音に間違いはない。やっぱり、彼はピアノ線の張り替えもするつもりだ。
 ぼくが、そう一人合点しかけたそのときだった。
 砂漠の世界に、さっきの比ではない、ものすごい、それはものすごい大音声が谺した。
 オペラ座の大シャンデリアがぼくのすぐ隣に落っこちて、粉々に砕け散ったらきっとこんな風だろう、いっそ華やかな感じさえするくらい、ものすごく派手な音だった。

 驚いて立ち上がろうとするラクダを宥めようと前肢に身を寄せながら、ぼくが塔のポーチを見上げると、おそらくさっきまでは三日月だったと思われる破片が、数えきれないほど散らばっていた。一部は、ラクダの背から零れて、ぼくの足元にも落ちてきている。ぱらぱらと銀色の欠片が散るのは、それはそれでとってもきれいな光景ではあったけれども、このきらきら光っている破片は、さっきまで三日月だったのだと思うと、きれいだとばかり言ってもいられない。
 彼はどういうつもりだったんだろう。三日月を粉々にするなんて。
 不思議でたまらないけれども、あいつ、なんてことをするんだよ、なんて腹が立ったりしないのもまた、奇妙なことだ。

 ふと気づくと、塔の先端に、月を粉々に砕いた彼が、ふたたび現れていた。
 目深くかぶっていたフードをはらい落とすと、星明りの下で、彼の髪はそれこそ月のようにきらめいて見える。
 はるか頭上にあってなぜこんなに、と思うくらいに、彼の浮かべている微笑は、見慣れた容貌でもって、はっきりとごく近くに見えた。彼が、“おいで”と呼ぶ声も、ごく普通の大きさだったのに、ぼくの耳にはたやすく届いてしまう。
 こうなってはもう、ぼくは黒猫なんかではいられなかった。黒い毛皮よりもずっと馴染の、薄紅色の羽毛にふかふかと覆われたぼくは、身体と一緒に軽くなる心持を持て余しつつも、すぐには飛び立たずに暫くラクダの頭にとまらせてもらっていた。
 いま天にいる彼の、地上にあるときと同じでいて少し違う、まるで星座になったようなたたずまいを、ぼくはもう少し見ていたかった。ラクダはぼくの羽根が少し擽ったそうだったけれども、咎めずにいてくれて、それよりも先に焦れたのは彼、ぼくの親友で尊敬する絵描き――降矢のほうだった。

「水城」

 急かすように名を呼ばれると、飛び立とうと思う間もなくぼくは飛び立って、薄紅色の羽根をはらはらとこぼしながら、塔の天辺の降矢のもとへと羽ばたいていた。螺旋階段を上るみたいに、塔のまわりをくるくると回りながら舞い上がる。
 あんなに大きなラクダが、ぐんぐんと遠ざかって小さくなっていく。急に小鳥になった猫に驚くでもなく、飛び立ったぼくをやさしい眼で見上げているフタコブラクダに、はるか地平線まで続くかに見えた砂漠の向こう、緑の草原が広がっているさまを教えてあげたくなる。
 そして、昇ってゆくにつれどんどん降矢のすがたが近づいてくるうれしさに、小鳥らしく心を浮き立たせてぴいぴい鳴いて、ぼくはあっという間に塔の天辺に到着し、差し出された指にそうっと降り立った。
 降矢の右手から、降矢の顔を見上げ、ぼくは、“ぴちち”と笑った。小鳥になるのは久しぶりだ。
 すごく小さくなってしまうから心もとないけれども、偽の黒猫でいるよりもずっと面白いから、小鳥は好きだった。

 それからあとのことは、じつにあっけない。
 まとめれば全部、案の定のお月様の仕業だったわけで、ぼくはついにお月様の飼い黒猫にされるところだったらしい。
 階段室に入って、塔の天辺にのぼってしまったら、三日月に引き込まれる仕組みになっていたのだとか。

 例によってちょっと怒っている降矢は、ぼくをとまらせていないほうの手を天に伸ばした。
 まるでスケッチブックを撫ぜるように、紺色の天鵞絨に手を滑らし、表面をちょっと探る。彼の指はすぐに小さな引っ掛かりをみつけ、降矢は、その引っ掛かりを、天鵞絨の裂け目を、そっとひらいてみせた。
 深い紺と紺の間から、蝋燭の焔に似た、金色がかった銀の光が零れ出している。
 ぼくは、明りが漏れ出る濃紺の裂け目に吸い込まれるように、小鳥のままで飛び込んで、そこに、本物の夜空を見つけた。
 月明りが尾羽の先まで降り注ぎ、身震いすると目の前に、大きな本物のお月様が現れる。
 ぼくを見て、円い顔をほころばせたお月様――月明博士は、後ろから追いかけてきた降矢を見るや、大慌てで天の頂に駆け上って行ってしまった。降矢はお月様を一瞥しただけで何も言わず、その拍子に剥がれ落ちた紺色天鵞絨を、何食わぬ顔でフタコブラクダの背に載せた。

 小鳥からいつものぼくに戻ったぼくと降矢は、そのまましばらく旅をすることになった。
 ―― 砂漠の向こうに見えた草原から絵葉書を通して、本物の黒猫の庭に戻り、古ぼけたプラネタリウムを修復する。
 ―― アゾートをたっぷり使って、二等星も三等星もみんな、上等の鉱石で罅割れを綺麗に繕おう。
 ぼくたちがそう話しあうのを聴いていたフタコブラクダは、なにがそんなに嬉しかったのか、砂丘の上で軽快にスキップをした。
その激しい揺れのせいで、天鵞絨がラクダの背から落っこちそうになるのを、ぼくは、文字通り、飛んで行っておさえたのだった。


おしまい | 2012/1/21