Azoth
或いは、カンバスにおける虹彩の色
#3 小鳥は青灰色のキャビネットに降り立つ


気がつくと、ぼくは薄紅色に染まっていた。青色アゾートと言うなら青くなるのが自然だという気がしてならないけど、あれはそんな単純なものではないらしい。羽の先まで薄紅で、卵がどうしてぼくをこんな色の小鳥として孵化させたのかは分からないけれど、薄紅小鳥は悪くない。いつもの黒い髪は、こうしてみるとなんて地味なことだろうか!この薄紅色を味わったら、もうあんな平凡な色にはもどれなくなってしまいそうだ。あたらしく孵化するというのは思った以上に気持ちがいい。

なんだか体が軽くって、ぼくは笑った。ぴちち、と鈴のような声になって、ますます楽しくなった。ということはやっぱり「体が」じゃない。「気持ちまで軽い」だ、と思い直す。これは小鳥だからじゃなく、薄紅になったせいもあるんじゃないかな。

ぼくは綿飴みたいな白い雲めがけて軽やかに飛翔する。ちょっと羽ばたけばぐんと力が出て、あとは風が運んでくれる。薄紅色の小鳥が水色の空を飛んでいることは、とても自然ですばらしいことだと周囲のあらゆる色が認めて祝福してくれているようなかんじさえした。

上昇気流に誘惑されて、いまや博士の実験室ははるか下のほう、茶色の屋根を見失った。小鳥ってもっと飛行船みたいにふわふわ飛ぶものだって思ってたけど、案外と飛行機に似ていて、その気になれば砂漠だって湖だっていけそうなかんじがする。ぼくはしばらくそのまますべるようにびゅんびゅん飛ばしてまっすぐに白い雲をめざしたけど、すぐに考えを改めなくてはならなかった。

だって、生まれたての小鳥はたぶん、目の前のおもしろそうなものを無視できないようにできている。ぼくは地上をはるか下に見下ろすことにすぐに飽きてしまった。

綿飴雲だけ見ているつもりでも、地上から白薔薇が香ればそれだけで下降するには十分な理由だ。その上、美人の紋白蝶が迷っていたらおせっかいを焼きに行くしかない。しかも青色アゾートたる薄紅色の小鳥はわりとほかのものたちの気を惹きつけるらしく、しょっちゅう声をかけられるのだ。公園の木馬に、教会の花壇のパンジー、堤防に連なる葉桜まで。

それでもぼくは誘惑をふりきりふりきり、下降はしても留まることはせず、出来るだけ遠くへいこうとがんばったのだけど、何十分かして、けっきょく、降り立たずにはいられないものに出会ってしまった。

ぼくが負けたそれはひとつの屋根だった。アゾートの卵の内側の、紫がかった青い綿飴によく似た、とびっきりの菫青色をした屋根だったのだ。壁は月夜の白鳥みたいにつややかな白である。ぼくを惹きつけるのにこれ以上の色はないと言ってよかった。

着地するのにふさわしい場所をさがして、ぼくは白い壁にぽっかりあいた窓辺にとまることにした。ちょうどその窓だけ開いていたし、ぼくは薄紅色になるまえから窓辺が好きだった。

綿飴みたいに白いけどふわふわはしていないすべすべの窓枠の上にそっと降り立つと、風でふくらんだレース編みのカーテンが顔にかかって前が見えない。くすぐったくてわらったら、ぴちち、と啼く音になった。どうやら、その声を聞きとがめたものがいたらしい。

「おや、小鳥かな?」

とつぜん低くしゃがれた声が聞こえて、ぼくはびっくりして飛び上がった。孵化したばかりの小鳥は、好奇心旺盛だけど臆病なのだ。飛び上がった拍子に、顔にかかったカーテンが外れた。

電灯の消えた薄暗い部屋のなかににんげんの姿はみえない。見えるのは、夜光塗料の夜空が輝く高い天井。そこから吊るされた、ブリキの三日月。天蓋ベッド、円テーブル、キャビネット。窓辺に広げられた傘の春模様。

「小鳥くん、はじめまして。」

もういちどさっきと同じ声がした。ぼくはきょろきょろ見回す。にぎやかな部屋のなか、そこらじゅうからくすくす笑う声がするけど、だれがぼくをよんだんだろう?

猫脚円テーブルの上では砂時計の青眼兎が知らん顔で目を逸らす。寝台では絹の百合が木綿の羊に目配せする。茨と薊がささやきあうのは床の絨毯だ。華奢な椅子の背に彫刻された一角獣は、視線がぶつかるとゆったり微笑みかけてくれたけど、まさか一角獣があんなしゃがれた声で話すわけがない。

「だれ?ぼくにあいさつしたあなたはどこにいるの?」
ぼくがぴちちと啼いて尋ねると、そこらじゅうでそよ風のようなさざめきがおこったあと、さっきのしゃがれ声が応えてくれた。

「私だよ。キャビネットの駱駝だよ。」

キャビネット、ときいてぼくはぱっと飛び立った。天井をくるくる回って部屋を見下ろすと、意外にもぼくがいた窓辺のすぐそばに背の低い青灰色のキャビネットが置かれている。硝子の戸は開いたままだったので、ぼくは、ぜんぶの段に降り立ってみることにした。

まず一番上の段には、造花の薔薇とパレットナイフが生けられたホーロー製ミルクピッチャーがまずひとつ。それから、レモングリーンの香水壜がみっつと、二つつながった金色のインク壺がならぶ。
二段目には茶色っぽい絵が填まったせとものの写真立てと、絵筆が一本入った青硝子の一輪挿しがあって、チューブ入り絵の具は数色ずつコルク栓の硝子壜に収められていた。
三段目で目を引くのは、大きくて瑠璃色の蓋付円筒缶。これはたぶん珈琲豆の空缶だろう。その横に、セルロイドのちいさなケースがたくさん並んでいて、それぞれ木綿の糸が藍から水までひと巻きずつおさまっている。
さいご、一番下の4段目はがらんとしていた。白い手袋が一組と、ラベルにお月様が描かれた燐寸箱がひとつ、それからトランプが一揃い。それでおしまい。

「……あれ、駱駝さんはどこにいるの?」
ぜんぶみたはずなのに。ぼくはとりどりのふしぎな品物にむちゅうで、とちゅうから駱駝さんをさがしていたことをすっかり忘れてしまっていた。

「ふふふふふふ。」

しゃがれたわらいごえだ。ぼくが同じ段におりたっても通り過ぎていったから、きっとおもしろかったんだろう。ぼくはなんだかはずかしくなってしまった。

「薄紅色がお似合いの小鳥くん。私は駱駝。写真立ての中、絵葉書の駱駝だよ。」




まだつづく
2010/6/7