或いは、カンバスにおける虹彩の色
#5 青眼の兎は蝋燭に火を燈させる


兎の言葉は確かにぼくに向けて放たれたように聞こえたけれど、ぼくが円テーブルを見たときには、兎の顔はまったくぼくのほうを向いていなかった。まるくて白いしっぽをした兎は抱えていた砂時計をゴトンと音を立ててテーブルに置きながら、ひとりごとのようにしゃべっている。

「じきに月が昇ってくる刻限だ。まったくもって時間がない!駱駝の話に割り込むべきだったかな。」

兎は水色チェス盤模様のチョッキを着て、そのせなかには、どういう意味なのか《Z to A》の縫い取りがある。ぼくがあっけにとられて眺めていると、兎は勢いよくくるりとターンして、透き通った海のように青い眼でぼくを真正面から凝視した。

「想像通りだ。黒猫によく似ている。」
「えっ……黒猫?なんで?」
「そのうちわかるさ。」

兎は説明する気がないのかそう言ってフッと笑い、「われながらアリスという呼び名は正解だったな」なんて満足げにつぶやいている。そういえば、兎はなんでぼくをアリスなんて呼んでいるんだろうか?とぼくが首――小鳥に首があるかはともかく――をひねると、兎は「彼が君の名を吐かなかったので、希望をこめて勝手に付けさせてもらったよ」と落ち着き払った口調で述べた。

「ところでアリス。そんなキャビネットにいたんじゃ話しづらい。こっちのテーブルへおいで。」
「えっ……あ、そうだね。はい。」
ぼくの小鳥的臆病はこの得体の知れない青い眼の兎に近づくのをためらっていた。でも、思わず判断を仰ぐように見上げてしまった駱駝さんが頷いて見せたので、素直に飛び立って円テーブルの兎の隣に止まった。
「よし。これで話しやすいね。よくお聞きよアリス。」

兎は砂の落ちきった砂時計に背を預けて立ち、隣のぼくと向かい合った。ぼくがチュンと啼いて頷くのを確かめて話しはじめる。

「僕はアリスに、僕の後を追いかけて穴に落っこちて欲しいと考えている。月明に攫われないためには必要なことだ。月明のやつ、いまはまだ黒猫に夢中だが、そのうち小鳥くんに目をつけるのは時間の問題だからね。」

そこまで話すと、こちらが理解しているか確かめるように、兎は青い眼をきらめかせる。ぼくはさっぱりわからなくて、チュンと情けない声で啼いた。兎もこれだけで理解されるとは思っていなかったようで、肩をすくめながらあっさりと先を続けた。

「まあ、いっぺんに言っても分からないよな。だからまずこの二つだけは理解して欲しい。ひとつ。君は、月明に誘われてはいけない。ふたつ。君がアゾートであることと、月明とはかかわりがない。」
「月明って月明博士だよね?かかわりがないって……ぼくがアゾートになったのは博士の卵を割ったからでしょう?」
ぼくがそう尋ねると、兎は気圧されそうなほど強い視線でまっすぐにこちらを見すえた。
「青色アゾートの卵が、誰にでも割れるわけがない。君は、卵を割るというきっかけで孵化したけれど、卵なんか無くたってじきに孵化していたに違いないんだよ。あの錬金術師が執心する稀な子だもの。」

錬金術師?じきに孵化していたって、いったいどういうことだろう。そもそも、月明だの黒猫だの、さっぱりわからない。小鳥のちいさなあたまは疑問符でうずまってしまっていた。兎は、不安そうなぼくをおもしろそうに見やりながら、言う。

「ほんものの絵描きは、誰よりも真実に近いところにいる。すなわち、錬金術師だ。」
こういえば、誰のことかは分かるだろう?と言わんばかりに微笑みかけられた。
「君には、錬金術師を惹きつける何かがある。月明お気に入りで、僕の親友の黒猫くんと同じさ。」

兎はにやにや笑いを続けながら、ぼくの眼の奥をじっと覗き込んだ。その眼の青はぼくが降矢の中に見るのと同じに澄み切って青いのに、張り詰めたようなものは感じない。同じ青のまなざしが、どうして違って感じられるのかを考えると、ぼくは自惚れに似たはずかしさを感じる。

「かく言う僕も、錬金術師。君が月明博士と呼んでいるあいつも、錬金術師。だから、月明も、絵描きくんや僕と同じく、君の持つ何かを感じ取っているんだろう。こんなところに別荘を持ったのも、僕から隠れるためだけじゃあるまい、君の気配に誘われて寄ってきたんだ。」

兎は月明博士が嫌いらしく、博士を呼ぶときは苦々しげだった。顔をしかめて言いながら、時折窓の外を見上げている。そういえば兎は「月が昇る刻限だから時間がない」と言っていたけれど、月が昇ったらどうにかなってしまうんだろうか?ぼくも、なんとなくつられて窓の外に昇り始めた月を見つめた。

「君にも、じきに月明から招待状が来るだろうけど、行っちゃいけない。あいつの籠の鳥になりたくないなら、僕について来て欲しい。月明に関しては経験豊富な僕が、傾向と対策を伝授するから。」
「えーっと。いまここで、教わるわけにはいかないの?」
「実際に来ないことには説明が難しいんだ。月明の黒い塔とその庭は、構造がややこしい。なんたって庭が円錐の底にあるし、庭は黒猫に譲られてから、もはや塔とは別の世界だ……。」

兎はぶつぶつと言いながらふかうかの前肢であごの毛並みを撫でている。やわらかそうな兎の毛並みに、ぼくはどうしてか降矢の横顔を連想した。さわってみたいような、軽々しく触れてはいけないような、静かであたたかなもの。

「兎さんは、降矢に似ているね。」

気がつくと、ぼくは無意識につぶやいていた。
兎は青い眼を星のように瞬かせて、まるいしっぽを思わせるふんわりした笑みを浮かべて言う。

「だいじなおともだちに似た僕に、ついてくる気になったかい?」

ぼくは、こっくりと頷いた。 月明博士が兎の言うような危ない人だとは信じられなかったし、わからないことだらけだったけど、兎は、降矢に似ているから。わけもなくそばにくっついていたいかんじがするのだ。
――ぼくが黒猫に似ている、というのも、こういうかんじのことなんだろうか。

「そうと決まればさっそく、そこに届いている招待状を燃やしてしまえ。」

兎は、ちょっと芝居がかった口調でそういうと、忌々しそうにあごをしゃくって窓辺を示した。ぼくはよくわからないままだったけど、とりあえず円テーブルを飛び立って窓のほうへ向かった。すると、いつの間に届けられたものか、レースのカーテンと白い窓枠のあいだに、封筒が挟まっている。ぼくはそれを嘴で引っ張り出してくわえ、円テーブルに持ち帰った。

「親愛なるPetit Oiseau殿。黒い塔のMoonshineより」

ぼくが表書きを読み上げると、まったく、油断も隙もない、なんてつぶやきながら、兎は封筒をつまみあげる。封筒は細長いクリーム色で、左隅に山高帽の紳士がいる。目が合うと、帽子を取って挨拶した。兎が青い眼をすっと細めて睨むと、ぴゃっと声を上げて逃げ去ってしまった。兎は封筒を裏返して、賢者の海の紋章が入った封蝋を開ける。中身は細長くすべすべした紙が一枚きりだった。ぼくは紙を覗き込んで読み上げた。

「Petit Oiseau殿を黒い塔へご招待致します。鍵は追ってミアシャム・パイプに届けさせます。必ずお一人でお出でください。ご招待のことはご家族・ご友人にも内密に願います。」
「いいからさっさと燃やしてしまえ。ちょうどおあつらえ向きに蝋燭がある。」

蝋燭なんてどこに?と尋ねようとしたとたん、兎がもたれていた砂時計から体を離して、ぼくは息を飲んだ。さっきまで砂時計だったはずのものは、いまや、白銀にきらめいてまっすぐ天へ伸びる一本の蝋燭だった。そばに零れている砂くらいしか、もう時計の名残は残っていない。

「火をつけなさい。燐寸があったろう、取ってくるんだ。」

招待状を見つけて不機嫌になっている兎は冷え冷えした声で命じる。ぼくは、「メアリアン!」と怒鳴られる御伽噺のアリスを思い出しながら、すばやくキャビネットの四段目に向かい、ラベルにお月様が描かれた燐寸箱を取ってきた。円テーブルに置くと、兎は燐寸箱のラベルを見て「しまった」と溜息をついた。

「きのうまでは獅子のラベルだったんだが。月明のやつ、こんなところに忍び込んで見張っていたのか!さては、空に昇らせたのはブリキの贋物だな。まあしかたないか。絵描きくんが帰ってきたら描きかえてもらおう。」
「よくわからないけど、とにかく、この燐寸をすればいいの?」
羽ではつかめないので燐寸に脚をかけながらぼくが尋ねたら、兎は首を横にふった。
「いや。この燐寸はもう月明の息がかかってしまっているから、使うのはまずい。君の羽根で火を付けてもらってもいいんだが……やっぱり、絵描きくんが適任だろう。」
兎は、長い耳をぴくりと動かしてそう言うと、にやりとチェシャ猫の笑いかたをした。

兎に目配せされて、ぼくも兎にならって耳を澄ませる。小鳥の耳ってどこにあるんだろうとかんがえながらでも、兎の言いたいことはすぐに分かった。足音だ。廊下のほうからかすかに足音がきこえる。だんだん近づいてくる、耳に覚えのあるリズム。これは、まちがいない。

――この部屋の主。降矢が帰ってくる!

ぼくはなんだか喝采を送りたくなって、ついばさばさと円テーブルから五十センチほどとびあがってしまった。おこらせてしょげていたくせにへんだけど、さっきから駱駝や兎と、ずっと降矢の話ばかりしているのだ。その上、青眼に降矢の色を見つけると、無性に会いたいようなかんじがうずうずしてたまらない。

可笑しそうに見守る兎にかまわず、ぼくは羽毛のさきまでぜんりょくでそわそわした。近づいてくる規則正しい足音に、どこだかわからない耳を澄ませ、降矢の背筋をまっすぐのばした歩き方を思い浮かべる。

そして、扉はついに開かれた。
きいと軋む音といっしょに、中とはにおいの違うかぜがふわりと舞い込む。ゆっくりと落ち着いた足取りで姿をあらわした降矢は、部屋に入ると同時に、その独特のしずかな気配をいっしゅんで部屋中にいきわたらせた。ぼくはちいさな胸いっぱいに、あたらしい空気をすいこんだ。またきいと軋んで扉が閉まる。

「おかえり、絵描きくん。」

ことばを発したのは、青眼兎が最初だった。降矢は驚くでもなく乱れない足取りで円テーブルに歩み寄ってくる。彼の視線は、テーブルの上の白銀蝋燭から、青い眼の兎、それから薄紅色の小鳥、と順番に移ってゆき、最後に視線を兎の青眼に戻してから口を開いた。

「あなたは、錬金術師の兎?てっきり夢でしか会わないものだと思っていたけれど。それに、こっちのかわいい小鳥くんはどなたかな。はじめての顔だ。」

降矢のふるまいとことばに、ぼくは少し落ち込んだ。そうだ、いまのぼくは降矢にとって知らない小鳥にすぎない。薄紅の羽根はとっても気に入っていたから、はやくもどりたいなんてたったいままでぜんぜんおもわなかったけど、降矢の視線が冷めた温度のままぼくから通り過ぎてゆくのはさみしい。

「夢だけの予定だったんだけどね。アリスが月明に攫われやしないか心配で、出てくることにしたのさ。」
「アリスというのがこの小鳥くんの名前なのかい?」
降矢は落ち着いた動作で、肩に下げた鞄を下ろしながら尋ねた。ゆったりと構えて、唇にはほほえみさえうかべている。ぼくとけんかしたっていうのにどうしてこんなにとりすましていられるんだろうか、とぼくはちょっと腹が立った。

「そんなことはどうでもいい。」
ぼくの怒りが伝染したわけではないだろうが、兎は降矢の問いを理不尽なほどあっさりと切り捨てた。
「アリスを救うために、降矢、君の手で蝋燭に火をつけたまえ。月明からの危険な招待状を燃やすんだ。ただし、燐寸は使うな。絵描きなら絵筆で燈してみせよ。」

「あいかわらずえらそうな兎だな。」
尊大に命じる兎に、おだやかな微笑でかれは答える。これは、一種のポーカーフェイスというやつだ。降矢はたぶん、ちょっと怒っている。かれは怒っていても怒った顔や声を出さないタイプなのだ。ぼくに対してだけは、そうでもないけれど。

「なんだ、できないのか?絵描きのくせに。」
兎は、ふんと鼻をならして小ばかにした口調で言った。兎ってもっとふわふわした生き物じゃなかったっけ?ぼくは背筋がぞっとしたけれど、降矢の完璧な微笑は一ミリたりとも崩れたりしなかった。ただ、瞳の奥のゆらめきが、青く冷たくなってゆくのが見える気がする。

「見くびらないでくれよ兎くん。」

はじっこのほうまでぬかりなく作りこまれた口調でそう言うと、降矢は青灰色のキャビネットの前にゆき、二段目の青硝子に立てられた一本の絵筆を取って戻ってきた。ぼくがはらはらとかれの顔色を伺うと、降矢は小鳥の視線に気付いてにっこりと微笑んでくれた。

降矢は右手に絵筆を持って、円テーブルの前に立つ。ぼくと兎のあいだに交わされた視線になど興味がない様子の彼は、もうポーカーフェイスを捨て去った、絵描きの顔になっている。カンバスに向かうときの鋭利さと真摯さとを持って、白銀の蝋燭に対峙していた。ぼくと兎はじゃましないように脇へ避けて、降矢の仕事を見守る。

しばらくのあいだ絵筆は動かなかった。どんな大きさの、どんな形の、何色の焔を燈すかかんがえているのだろう。黒い眼を煌かせる色の実験に夢中だったときと同じまなざしをしている。ぼくは降矢の眼の奥に、青と紫をよりあわせたような煌きが燃えるのを見た気がして、これがいいな、とこっそり思った。降矢の絵みたいな静かな白銀に、彼の瞳の奥とおそろいの焔が燃えたらどんなに綺麗だろう。

そのとき、降矢の研ぎ澄まされた切っ先のような眼がふいと蝋燭から逸れたのでぼくはとてもおどろいた。その上、かれの逸れた視線が、いまは小鳥として降矢を見上げるぼくの黒い眼を捉えたものだから、ぼくは心臓をそっと撫でられたようなしずかな衝撃をかんじて身動きができない。

降矢は、固まった薄紅色の小鳥を見てほどけるようにふっと笑うと、またすぐに蝋燭に向き直った。右手を持ち上げて、焔の構想は固まったらしい。ぼくは、たぶん青眼兎も、固唾を呑んで見守った。

絵筆の穂先は、まず蝋燭の灯心にぴたりと当てられた。リンと鈴の音がふるえたのを合図に、まるくて薄紅をした焔の芯がそこに生まれる。ついで絵筆は、まるで砂時計の砂が反対向きに落ちてゆくようにゆっくり、すうっと動いて昇っていった。薄紅色の芯が穂先に釣られるようにして細く伸び、紅が深まった焔は、蜜柑色を通ってたんぽぽとカナリアの色で耀く。あかるくてあたたかな焔に感嘆の溜め息をついたとき、絵筆は最後のひと刷毛を動かした。焔がもういちどリンと鳴る。

降矢の右手がそっとおろされたとき、蝋燭の焔は蜂蜜みたいにとろける黄金として煌いていた。




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2010/7/2