或いは、カンバスにおける虹彩の色 |
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#7 パイプは煙を吐いて琥珀色になる
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降矢は青色結晶からふいに顔をあげ、ぼくの顔を見てちょっと顔をしかめた。なんだろうと首をかしげたぼくは、降矢のことばを聞いて驚く。そうだ、すっかりわすれていた! 「水城が月明に攫われるとかいう話はどういうこと?僕が招待状を燃やして、危機は去ったのかい?」 「ああ、そうだった!絵描きくんの仕事はもうひとつ残っているんだ。」 青眼兎もぼくと同じく結晶に気を取られてすっかり忘れていたらしく、あわてて青色をテーブルに置いた。ぼくもそこまで聞いてやっと思い出したので、降矢が命じられる前に、キャビネットにそれを取りに行く。 「キャビネットの四段目に燐寸があるだろう。獅子を追い出して月明がもぐりこんでいるから、ラベルを描きかえたほうがいい。」 「これだね。」 ぼくは、燐寸を降矢に差し出した。 「ああ、ほんとうだ。こんなところに侵入するとは、あの人案外意地が悪いんだな。」 降矢は燐寸箱に描かれた三日月を見てあまり驚いているとも思えない平静な声で言った。にっこり笑ってこちらを見ている月のラベルは、降矢の沈着さに気圧されたようにちょっと遠ざかった。 「とりあえずはがすよ。」 そう宣言し、降矢はぼくの手から燐寸を受け取ると、右手の爪先でラベルの右下の角を引っかいた。はじがちょっとめくれて、指をかける。三日月が逃げたそうに顔を歪めているのがぼくにもわかった。兎が「いっそ八つ裂きにしてやってもいいぞ」と物騒なことを言うと、燐寸から「ひええ」と聞き覚えのある声がする。降矢は兎の言葉と三日月の悲鳴、どちらにも表情を変えなかったけれど、かれは明らかに丁寧さを放棄した手つきで、ラベルを一気に剥がし取った。 「いたたたたた!」 情けない悲鳴とともに、はがれたラベルから月明博士がころがり落ちてくる。ほんとうにそんなところに隠れていたなんて!博士の白衣は剥がされたときにやぶけたらしく、博士はお尻を手でおさえていた。 「まったく。黒猫を攫って、こんどは小鳥か。懲りないやつだな。」 青眼の兎は、青い眼を氷河のようにするどくしてぴしりと言った。ぼくが言われたわけでもないのにおびえていると、降矢も兎とそっくりの目をしてあとを続けた。 「水城を攫おうとしたというのは、どういうことか教えていただきたい。あの奇妙な招待状といい、月明博士、あなたは何者なんですか?」 丁寧な口調で、発音も一語一語きっぱりと完璧だった。その完璧さが、かれの怒りをあらわしているにちがいない。いまのところ、ただぼくに招待状を出しただけで特に悪事をはたらいたわけでもない月明博士は、かわいそうになるくらい動揺していた。平静をたもとうとしているのか、懐から白いパイプを取り出し、火もついていないままくわえる。 「いや、今回はなにもしとらん!わしは罪のないただのお月様じゃ。蒼く清浄な光の……。」 「嘘だな。あの招待状はなんだ。僕の親友を攫ってペットにした時とまったく同じじゃないか!」 「それはじゃな……。黒猫がいちばんなんだがどうもむりそうじゃろう。小鳥になったのを見たら、この子を手乗りにして塔で飼うのもいいかなとつい……。」 「ほらみろ。大方、卵を作り始めたのも、黒猫をじぶんのアゾートにしようとか、そういう魂胆だろう。」 月明博士――お月様と青眼兎は、過去になんども似たようなやりとりを繰り返しているとしか思われないほど、みょうに手慣れた言い争いを繰り広げた。言い合いの途中、月明博士は隙を見て蝋燭の火を借りてパイプに火をつけることに成功し、兎と降矢双方に睨まれた。 「なんじゃ、みんなしてわしをいじめよって。ぼうや、きみはわしをおこってなどおらんだろうに。」 月明博士は、すがるような目でぼくを見た。責めるのはわるいようなきもするけど……。 「お月様だなんて黙ってるのは酷いよ。燐寸のラベルになって盗み見てるのも。それに、卵なしでも青色アゾートに孵化してたっていうなら、ぼくはそのほうがよかったな。降矢に描いてもらって、それで孵化してみたかった。それに――ぼくは月明博士のペットにはなりたくない。」 ぼくが一息にそう言うと、月明博士は最後の望みを絶たれたといったように肩を落とし、パイプの吸い口を噛んだ。ふううと大きく息を吐き、パイプの煙がもわりと立ち上った。理不尽な言い草かな、とちょっと罪悪感がこみあげてきたけど、月明博士の「手乗り」として「飼われる」のはぜったいいやだ。 「ほらみろ。アリスだって怒ってるじゃないか。」 兎はふんと鼻を鳴らして、煙たそうに前肢を動かしている。白いパイプからもれる煙は蒼白く耀き、まるでラムネソーダのようなふしぎなにおいがした。 「そういえば、」 煙のこない位置にさりげなくぼくを誘導しながら、思いついたように言いかけたのは降矢だった。どんな種類の話がはじまるのかてんで読めない平坦な口調に、ぼくと兎と月明の全員が降矢に注目した。 「博士、あなたはお月様なんでしょう。だったら、あの、窓の外に浮かんでいるあれは何です?」 降矢はそう言って、長い人差し指で窓の外に浮かぶお月様を指した。月明博士は「しまった気付かれたか」というように眼を逸らした。だんまりのお月様にかわって答えたのはやはり兎だった。 「あれはブリキ製の贋物。このお月様は、おもちゃの身代わりを浮かべてサボっているのさ。」 兎はお月様を軽蔑のまなざしで一瞥すると、招待状の燃え滓の月長石と卵殻とを拾い上げた。卵殻をちょいちょいといじってあっさりパチンコの形に固めたものと、蒼白く耀く石をもって円テーブルからひょいと跳び降り、白い窓枠にぴょんと跳びのる。お月様だけが、兎が何をするのかわかっていて、くわえていたパイプを口からもぎはなして「やめてくれい!」と叫んだ。 もちろん兎は、お月様の悲鳴になどかまわない。むしろお月様のゆがんだ顔を横目で確認して満足そうに笑い、開いた窓から外を見上げる。じっと見据えるのは天に浮かぶブリキの月。兎は耳の後ろ辺りから白い毛を一本抜いて、パチンコのゴムにした。月長石をゴムにあてがい、左前肢でパチンコを高く掲げ、右でゴムをきりきりとのばし、片目をつむって狙いを定める。 「やめろ、兎や、あのブリキを本物ソックリに塗るのは大変だったんじゃぞ!」 兎は、お月様の悲鳴を合図に、右手をパッとゴムからはなした。月長石はまっすぐに天に向かって飛んでゆく。ひゅるるるる、がしゃん!大きな音をたてて、ブリキの月は墜落した。周りの星はお月様の消失にあわててまたたいているが、どうしようもない。 ぱちぱちぱち。こちらの室内では、ぼくと降矢が兎の見事な腕前に拍手を贈る。お月様はというと、すっかりいじけて、しきりにパイプをふかしている。あたりには蒼白い煙がたちこめ、白いパイプの顔色はだんだん黄色くなってきていた。 「ああ、もったいない。また作り直しか……。」 「ぶつぶつ言ってないで昇れ。星が困っているじゃないか。」 兎に促され、お月様は嫌そうな顔で、ぐずぐずとパイプをふかした。蒼白い煙が出て、パイプはまた一段と黄色が濃くなる。お月様はパイプの顔色を寄り目で確かめながらもう二三度パイプをふかし、完全に琥珀色になったところでやっと口からはなし、突然、ひょいと天井に向けて放り投げる。 琥珀色のパイプは空中で宙返りして、てのひらくらいの大きな金色の鍵になり、お月様の手のなかに落ちてきた。お月様は、現れた鍵をぼくの手に握らせる。 「では、わしは失礼しよう。」 なんだかわからないまま受け取ってしまって戸惑ううちに、お月様は兎の抗議を無視してさっさと行ってしまった。すなわち、窓から飛び上がって空を駆け上ったのである。お月様は落ちたブリキにかわってもとどおりに耀きだし、星たちもほっとしたようにまたたいている。 「そうか、鍵はミアシャム・パイプに届けさせると書いてあったのだったか……。」 ぼくの手の中で存在感たっぷりに煌いている鍵を見下ろしながら、兎は忌々しそうに言う。降矢も顔をしかめて、金色に耀く大きな鍵を一瞥した。 「この鍵は持っているとまずいかい?」 「下手に捨てるほうがよくない。月明のやつは執念深いから。」 「綺麗な鍵じゃないか。わるいものには見えないけどなあ……。」 鍵をゆびでなぞりながらぼくがそう言うと、降矢と兎、両方から溜め息をつかれた。かれらは、お月様という共通の敵を得て、みょうに息が合いだしている。 「あのね水城。黒猫を攫ったとか、水城を手乗りにしたいとか、君も聞いたろう?」 「まったく。アリスはそんなところまで黒猫にそっくりなんだな。」 あきれた口調でふたりに言われて、ぼくはむくれた。 「ぼくはこれまで、毎日月明博士のところに帰っていたけど、あぶない目になんかあったことないよ?」 「それは、月明が黒猫を攫うのに夢中だったから、アリスに目が行かなかっただけさ。だがアリスは、もう目をつけられたんだ。そうなったらおそろしいぞ、あいつは。しつこいのなんのって。」 青眼の兎は、まるで怪談話をするような調子で言った。ぼくがぴんとこないで首をかしげているので、説得をあきらめて肩をすくめ、降矢のほうに向き直ってキッと見据えた。降矢は、あたりまえのように兎のきつい視線をうけとめている。 「これはやはり、降矢にしっかりしてもらうしかなさそうだな。」 「もちろんそのつもりさ。錬金術師としては、僕のアゾートを守り通さないとね。」 「ついては、経験豊富な僕が月明の傾向と対策を伝授して進ぜよう。アリスとともに庭へ来たまえ。」 兎は重々しい口調で述べると、くるりとターンしてぼくに向き、一転して軽くなった声で続けた。 「アリスは黒猫の庭の手入れを手伝ってやってくれ。君とあいつはきっと仲良くなれるから。」 こどもは外で遊んでなさい、といわれたような気がしてちょっと悲しかったけれど、ぼくに似ているという黒猫さんとともだちになれるのはうれしいので、ぼくは素直にうなずいた。 「よし、そうと決まればさっそく行こう。」 兎はそう言って、ぼくと降矢と円テーブル上の蝋燭をじゅんばんに見た。なにかをたしかめるような目つきで金色に燃え続ける焔を見上げ、青い眼を満足げに細める。 「兎さんの庭へは、どうやってゆくの?」 きっと、あたりまえにあるいていくとか、汽車に乗るとかではないのだろう。 ぼくが尋ねると、青眼の兎はチェシャ猫のように笑って短く答えた。 「決まってる。ページをめくって、さ。」 降矢とぼくは、なぞめいた言い回しに顔を見合わせる。兎はぼくらにかまわず火のついた蝋燭を両手に抱えあげて、円テーブルの上をすたすた歩いていた。この蝋燭を、何かにつかうんだろうか? 「だいじょうぶ。アリスたちは僕のあとを追いかけて、ただ落ちてくればいい。」 円テーブルのはじっこに行き着いた青眼兎は、抱えた蝋燭をひょいと床に投げ落とす。すると、白銀の蝋燭はぴしゃんと音を立てて牛乳のように床にひろがり、白く耀く円い穴になった。燃え続ける金色の焔は、流れ星のように穴の中を落ちてゆく。 「次は、紅い眼のページでお会いしよう。」 眼を丸くするぼくらに青い眼をきらめかせてそう言い残した兎は、円テーブルからぴょんと跳ねる。生まれたての兎穴に吸い込まれるようにして、兎は流れ星を追いかけていった。白いしっぽは白銀にまぎれて、あっというまに見えなくなってしまう。 「僕らも行こう。」 言いながら差し出された降矢の右手に、ぼくは左の手をのせてきゅっと握った。 せーの、でふたりいっしょに白銀の兎穴に飛び込んで、ぼくたちはどこまでもおちつづけてゆく。 兎穴を落ちながら、あるいは落ちきった庭の中で、何があったのかは、ないしょ。 それはまたいつか、別のおはなしとしてはじめることにしよう。
The END.
おしまい 2010/7/28 |