会社から帰っていつもどおりにマンションの郵便受けを覗くと、大きな茶封筒がひとつ届いていた。年賀状以外が届くのは久しぶりのことだ。
とりあえず封筒を掴んで郵便受けの蓋を閉め、フェルトペンで豪快に書かれた自分の長々しい住所を眺めながら寒い廊下を歩く。手袋越しにごつごつした感触が伝わってくる、ところどころ膨らんだいびつな角型2号は、中身を詰めてから宛名を書いたらしく、筆跡は不自然にゆがんでいた。
私にそんな迂闊な知り合いが居ただろうかと考えながら、半ば無意識にエレベータを呼ぶ上矢印ボタンを押す。右手はなぜか封筒を優先させてしまい、鞄を持った左手を使ったせいで、肩から腕にずっしりと重みがきた。
いまさらに疲れを意識してちいさくついた溜息は、思いがけないほど白い。封筒を持った右手でネクタイを緩めようとして、手袋をしたままだったことを思い出して途中でやめたのは、手袋の毛糸がネクタイにくっつくのが厭だったからだ。
そんな自分にもういちど溜息をつきそうになったのをこらえ、膨らんだ封筒をもう一度見た。浮世離れした自由な筆跡は、見慣れたはずの自分の名前をまるで別人のように感じさせる。書きにくそうにゆがんでいなかったらおそらくもっと伸びやかだったろうに、残念なことだ。私は差出人を確認しようと、封筒を裏返してみた。
そのとき、ちぃん、と鳴ってエレベータが着いた。
扉が開いて、何人か降りてくる。私はエレベータの真ん前に立ち尽くしたまま脇に避けもせず、封筒の字を見つめ続ける。宛名と同じく豪快な字で書かれた名前には、不自然なゆがみがどこにもなかったからだ。
迷惑そうに私を一瞥し通り過ぎていく人々。扉を開けて私を待っているエレベータ。伸びやかな手跡は、そんなものみんな置き去りにしてあのころのまま私の右手で笑っていた。
あの子の字は――そうだ、いつも笑っているような感じがする。肉声そのままのあかるい笑い声に、私は自分のせせこましいボールペン習字が馬鹿らしくなったものだ。
この声が聞きたくて、すでに疎遠だったあの子に年賀状を送ったのは何年前のことだったろう。コンビニで買った印刷済みの年賀葉書に、何を書いていいかわからなくて、「体に気をつけて」とだけ書き添えた。
いっそ奥さんの字で宛名書きした年賀状でも届けばいい、子供の写真が付いていたら完璧じゃないか。そんな気持ちで待って、結局返事は来なかった。
正月が来るたびに身構えることもいつの間にかなくなって、私はゆがんだ宛名の字ではあの子と気づけなくなって、それだけの時間が経った。それでも、あれから一度も引越しはしていない。
私は、口を開けて待っているエレベータの目の前にいることも忘れて、鞄を置き、手袋を外し、封筒を両手で持って、表面をもういちど見た。あの子の字、私の名前だ。宛名が中身のごつごつなんかのせいでゆがんでいなかったら、すぐにだれの手跡だか気づけただろうか。
指先で私の名前とあの子の名前をなぞってみてから、封を開けることにする。破れないように丁寧に糊付けを剥がし、出てきたのはごつごつした何かが詰められたジッパー付ビニール袋だった。こういうのを、ジップロックというのだったか。
そのジップロックの表面には黒マジックで何か書いてあった。こんなところに書くにしては長すぎる文章で、筆跡だけではない豪快さに笑ってしまう。
お餅が余ってるから送る。一個ずつラップに包んどいたから袋をこのまま冷凍庫に入れるように。きな粉の袋は冷蔵庫へ!
《食べ方》
水にくぐらせて皿に置き、ラップをしてレンジにかける。500Wで1分20秒くらい。きな粉も入れといたからまぶすとおいしい。
封筒の中を見直すと、たしかにもうひとつ小さな袋があった。取り出してみると、きな粉がビニール袋に二重に包まっている。こぼれないようにという配慮だろう。昔からそうだ、こういうところは私なんかよりずっとまめな子だった。
きな粉の袋には何も書いていなかったけれど、封筒にはまだもうひとつ入っていた。餅の袋に押しつぶされてあちこち折れ曲がった、お年玉付年賀葉書だった。見ると、律儀に宛名まで書いてある。
遅くなったけど、年賀状ありがとう。
何年かぶりに実家に帰って渡されたよ。驚いた。
そっちこそ、体に気をつけて。ちゃんと三食食べてる?
お歳暮のハムも余ってるから、欲しかったら電話して。
無地の年賀状に、「あけましておめでとう」すらなく、干支のイラストなどもなく、短い手紙のような文章だけがつづられている。封筒の宛名と同じフェルトペンで書いたのだろう、あの子の笑う声が耳の奥でよみがえるようだ。
電話番号を記した後、最後に一文だけ鉛筆の小さな字が並んでいた。あの子には珍しいためらいがちな字だ。
迷惑だったらぜんぶ捨ててほしい。
私は、もうなんだか泣きそうな心地だった。ぎゅっと眼を閉じる。私が餅の解凍方法なんか知らないことも、わざわざきな粉を買いに行かないだろうことも、今夜はもう夕飯なんかすっとばして眠ってしまおうとしていたことも、みんなお見通しの癖に、最後にはこれだ。なんてばかな、かわいい子だろうか。
私は、餅ときな粉と年賀状を封筒に戻し、足元に投げ出されていた鞄と手袋を取り上げた。今夜は、ありがたくきな粉餅をいただいてから眠ろう。明日、ハムがほしいと電話をしよう。
エレベータは痺れを切らしての扉を閉ざしてしまっている。鞄を持った左手で、もう一度ボタンを押した。やっぱり重い。でも、お礼に何か送るなら何がいいだろうと考えていると、溜息なんかつく暇はない。
エレベータの扉が開いた。乗り込んで5のボタンを押しながら考えをめぐらせる。
そうだ、ひと月もすればバレンタイン・デーがやってくる。チョコレートか、でなければワインでも贈ろうか。あの子は、酒はいけるんだろうか。いちど訊いてみるべきだろう。エレベータは扉を閉め、しずかに上昇してゆく。
言うべきことも尋ねることもきっとたくさんある。あれから何年たったことか。電話をするのはきっと会社の休憩時間になるだろう、出勤前では早すぎるし、仕事から帰るのは深夜だろうから。でもそれでは、ハムの話くらいしかできやしない。
私は、右手に持った封筒にそっと眼をやった。
そうだ――私も、手紙を書こうか。あのころからきょうまでのことを、長い手紙にしてみようか。そういえばあの子はよく、私のせせこましいボールペン習字を綺麗な字だと褒めてくれた。
扉が開いて、私はエレベータを降りる。マンションの廊下は寒い。仕事鞄は重い。夜はいつも遅い。それでも、君が元気で私の心配をしてくれるなら、私も元気に決まっている。
そんなことを大きな字で書いたなら、君は、
どんな返事をくれるだろう。